(a flower) |
挨拶もそこそこに、これです、と最寄のバス停から駆けてきたらしい――歩いても結構かかる、頬を真っ赤にして息を切らす菊が、大事そうに取り出したのは一枚の古ぼけた原稿用紙だった。 ほとんど黄ばんで茶色くなって、文字も滲んでいる。受け取って、最初首を傾げたアーサーは、しかしはっと目を開くと黙って書斎への廊下を歩いた。菊はまだ息を切らしたまま、しかし目をきらきらとさせて後をついてくる。 「やあキク!来たのかい!後で古いラジオを分解するの手伝ってくれよ!」 ええぜひ、と居間から飛んだ陽気な声に返事を返しながら、二人は昼間でもうっすらと暗い廊下を、窓からの逆光の中歩いた。 書斎の扉を開けると、アーサーはいつも時が止まったように感じる。まだ祖父がここにいるようだ。窓からの斜めの明かりは、朝独特の真っ白な鋭さがある。窓枠の影を踏み、二人は部屋の中心へ進んだ。中央の南より、窓辺には書架机がひとつ。いつもそこに、祖父は座っていて、居間はアーサーがそこに座る。 年代物のその机にサッとかけると、アーサーは、原稿用紙を広げ、下からの電気をつけた。太陽にすかしたように、ほんのりと赤く光った古い紙に、ぼんやりと、先ほどよりは暗くはっきりと、文字だけが浮かび上がる。 「草稿の一部です…結局この部分は使われなかったようですが。」 ―――Laura. My dear Laura. どこかで見た筆跡。 「…これをどこで?」 緑の目玉を丸くして、振り返ったアーサーに、菊はほこらしげにほほを緩めてすこし肩を竦める。宝物を見つけてきたのを誇る子供のよう。今思い出したというように、帽子を取りながら、菊が言葉を発する。庭の木は緑、音もなく風にさざめいている。 「社の物置で。」 「今度から連載する予定の資料を探していて…保管部のほうにかなり古い資料までさかのぼれないか、と無理を言ってみたところ、物置の鍵だけ渡されました。」 やれやれ、と菊が肩を先ほどとは違う調子でおどけて肩を竦め、それにアーサーはひくく笑う。 「どうせお前のことだ。やるなら徹底的に!とか言って大掃除でもしたんだろう。」 「おや、すごいですねぇアーサーさん。正解です。いやあ、あれは整理整頓のしがいがありました。まったく保管部のみなさんが普段何をしておられるのかだけが不思議です。」 他愛のないおしゃべりを交わしながら、それでもアーサーは、その古ぼけた紙から、その上を優雅に走る筆跡から、目を離すことができなかった。机の上に、手が張り付いてしまったようだ。外の光だけ、かわらず明るい。 「…それがなんだか、おわかりになりますか?」 菊の黒い髪と目が、緑の光を映して不思議な色をしていた。神秘的で、少しなぞめいて見える。時々この友人は、そういう空気を漂わせることがあるから、アーサーは度々ドキリとさせられた。 「いいや…。祖父のものだ、それだけはわかる。…が、」 もう一度原稿用紙に目を落とした。見知らぬ一行が、付け加えられている。 ――遥か魂の邂逅する時へ、我を導け。 「皆目検討もつかない。」 正直にそう述べると、「コラムですよ。」菊が言う。 「…コラム?」 「雑誌の連載です。植物をテーマにした。たしかに資料をさかのぼってみるとアーサー・ジョーンズ氏の、書簡の形を模した連載が存在しました。」 説明を続けながら、菊の鞄から、どさりと雑誌の山が取り出される。 「タイトルは、花に寄せて。"for a flower."です。」 十数冊に及ぶだろう、紙の束。それがその小さな鞄に入っていたのかと思うと、毎度驚かされる。 「雑誌の後ろのほうの頁、片隅にひっそり咲くような小さな小さな、つい見過ごされがちな記事ですけれど。」 すべて読んだのだと、その目が告げている。 「私は好きですね。」 心からの言葉なのだろうと、それを聞きながらアーサーは不思議と思った。 「…これだけの資料どうやって集めた?」 「なに、知り合いの伝やらなにやら情報網も使いつつ、まあほとんど一度整理した物置をほぼひっくり返し荒らしまくって帰ってきました…保管部の仕事を取らずに済んだのはなによりですが、なにせ私にとっては外国語の資料ですし分類もされていない古いものですからもう確認するのも読むのもたいへん…、」 ふわ、とあくびをかみ殺して菊が笑う。 「流石に三日徹夜は疲れました。もう年ですかねえ…お宅のソファをお借りしても?」 「…もちろんだ。ベッドならすぐ用意するが?」 「いえ、ソファで結構。午後から会議ですので。」 無言で少し頭を下げるアーサーに、勝手知ったる人の家、菊がよしてくださいよ、とあくびをしながら書斎をでてゆく。私の趣味なんですから、という言葉がくすぐったかった。菊のくたびれた背中を眺めながら、アーサーは腰に手を当てて、少し息をはいた。笑い出したいような、気分もしている。 一方の菊は、アルフレッドの「なんだい寝に来たのかい君!」と言う抗議をものともせずソファーであっという間に寝付いた。それを確認し、毛布をかけてから、彼はすぐさま書斎にとって返す。 静寂。やはりこの書斎は、外の世界とは隔たっている。すべての音、物事が遠くに聞こえる。扉を閉めると、完璧に閉じこもるための殻ができあがった。 アーサーは書架机に積まれた雑誌の束を見る。植物に関する専門誌なのだろう、表紙には花のスケッチがずらりと並んだ。 端が黄ばんで少し丸まった紙。胸元のポケットから眼鏡を取り出すと、アーサーは椅子に腰をかける。 思わぬところから、思わぬものが出てくるものだと思う。今このときに出てきたのも、それを見つけてきたのが菊なのも、不思議で、しかし然るべき理由があるがゆえに、今で、そして彼だったようにも感じる。しばらくじっと積まれた紙の束を見つめていたが、まっすぐに座り直すと彼は一番上から手に取った。 まず最初に雑誌の最後の頁を開く。古い日付――とは言っても驚くほど遥かではない。比較的近くはあるが遠くもある昔。ちょうどアーサー自身が、みっつかよっつ頃だろうか。祖父が机に向かっていた記憶はこれかもしれない。20年以上前、雑誌は1年足らずで廃刊したものらしいが、編者のこだわりが感じられるような、繊細な作りをしている。 古書に対してそうするように、少し恭しく、頁を巻き戻す。丁寧に、何枚か捲ると、あった。菊の言う通り、後ろから数えた方が早い。アーサー・ジョーンズ。サインだけが祖父自身の字体をしている。 記事はちいさく、ひっそりとしたたたずまいで、タイプされた英国式の書体が並ぶ。タイトルはやわらかに花をちりばめたようなフォントで。"花に寄せて。" |