(dream) |
どうぞ、と穏やかな声に招かれた家の中には明るい光が満ちていて、いかにも居心地の良さそうな家具が並んでいる。 「とは言っても、叔母は私が生まれる前に亡くなったので、あまりよく知らないんですが…、」 椅子をすすめられながら、ふたりは腰を下ろす。そのむかいに腰掛けた女性は、名前をと名乗った。ローラと言われたらどうしよう、と少しハラハラしてすらいたアーサーは、残念なような、やっぱり安堵したような、まぜこぜの気持ちで肩をなでおろした。 真っ白なソーサーに紅茶が入れられる。 最初に「コーヒーと紅茶どちらがよろしいですか?」と尋ねられたとき、「コーヒーで!」と手を上げかけた弟を肘鉄で制して「紅茶でけっこうだ。」とアーサーはにこやかに微笑んだ。それにのんびりと微笑み返して、入れられた紅茶は、なるほど、花の香りがして、正直においしい。アルフレッドも「痛いじゃないか、」とぶつぶつ小さく言いながら、しかし大人しく啜っている。 その間に、幾つか本や紙の束を抱えて、彼女が2階から降りてきた。 目の前に、鮮やかな色とりどりのスケッチが広げられる。白い光の室内に、花が咲いたように見えた。少し眩しい。 「ローラ、…キャロラインは母の姉だったんです。小さい頃から絵が上手だった、とよく聞きました。母がいればよかったんですけれど急なお話だったので今旅行中で…。私小さい頃、叔母が描いた絵本を読んで育ちました。出版社に持って行ってハネられた原稿ぜんぶ、早くに結婚した母が譲り受けたんです。」 ふふと笑って、彼女がさらに擦り切れた冊子を取り出す。事前に電話をかけておいたので用意しておいてくれたらしい。アーサーは礼を言って何冊か手に取る。たしかにあの挿絵を描いた作家らしいが、しかしどこか、何が違うのかといえばなにも違わない気がするのだか、どこかちがうような気もした。 何冊か捲りながら、ふと、真っ青な表紙の本に目が留まった。 ―――時の話。 「これが一番不思議で…印象深くて好きでしたね。」 アーサーの視線に気づいて、がその本を手に取る。差し出す指先の白さも、ほほえむ横顔も美しかった。控え目な、理知的な美しさ。長いまつげの影。居間の光に包まれて、見る者が思わずはっとするような。 始まりの言葉は、歌うようなひびき。 ―――もしかしたら さばく。うみの そこ。 青い絵。 ここは いま きっと せかいの いちばん はて。 空をくじらが泳ぎ、ラクダが海の底を歩いている。不思議な青だ、息の止まるような、鮮やかなブルー。 おんなのこは あるく。さばくの かげ、きりたった かいこうの ふち。そう、ここは せかいの いちばん はて。うつくしい ばしょ。 ふと気がついてアーサーが隣を見ると、アルフレッドが真っ青な目を開いて、つりこまれるように画面に釘付けになっていた。――今まで空の色だと思っていた――その時すら止めたような表情に、彼は初めて弟を見たような心地がする、その目は真っ青な海の色だ。斜めにさしこむ昼間の白い光が、弟の背中から落ちて、顔が鮮やかな影の中にある。天使の横顔の彫像に似ている。明るく透き通った青の瞳。それはもしかしたらひょっとすると、彼の緑よりずっと孤独でさみしくて。 アルフィー、と懐かしい名前で、思わず呼びかけそうになるのを、アーサーはなぜか喉の奥で留めた。声を発することすらはばかられるような、真剣な光が弟の目にあった。その視線につられるように、アーサーもゆっくりと、本に目を戻す。 まっさおな かげと みずの ひかりの なかで おんなのこは ひとりの おとこのこに であった。 砂漠の、海の底の丘にできた影の中、少年はぐったりとして泣いている。 おとこのこのめだまは まっさおな うみとそら。"なぜ ないているの?" "かなしくないのになみだがでるの。ここは あんまり うつくしく、ひとりぼっちの しずけさだけが ただ ぼくのむね たたくので。" 絵本の中の少年の真っ青な目玉は、やはり弟に似ているようにアーサーには思われてならない。海と空の青。弟はまだ呼吸の方法すら忘れて、絵に釘付けになっている。 "なら、もう だいじょうぶ。" おんなのこは おとこのこの かたを そっとたたいていった。 "わたしがいるわ。" ときが ながれて おとこのこは やがて いしの はなに なった。さばくの あおい かげに いしの はな が さいた。 ―――きみをおいていくことだけきがかりだ。 そっと弟が、絵本の言葉をなぞる。小さなささやきで、しかしざらりとぬれたような声は、一瞬誰のものか判じかねるほどうつくしかった。彼女が微笑み、美しい指先で頁をめくる。真っ白な光が満ちている。 そうしてアーサーは、ふと気づく。 時が止まっている。―――ふたりのために。 ふいに浮かんだ言葉は畏ろしいような静けさを孕んでいた。と弟の輪郭を、光がしずかにつつんでいる。 さばくの おか の あおいかげ。はなのさく うみの そこで おんなのこが ないていた。おとこのこは それを みつける。 "なぜ ないているの?" "かなしくないのになみだがでるの。はなはうつくしく ここはうつくしい。なのに どうして こんなにしずかなの?" "もうだいじょうぶ。" おとこのこが いう。 "ぼくがいる。" ときが やがて ふたりを おとずれて おんなのこは いしのはなに なった。さばくの あおい ひかりの なかで おとこのこが はなに みずを やる。 おんなのこが、やってきて おとこのこに たずねた。 "なぜ みずをやるの?ここは うみの そこ。さばくの まんなか なのに。" おとこのこは、こたえて "これはきみとぼく。" やがて ときのおきなが はだしで ふたりを おとずれて、おとこのこは いしのはな に なった。 "だいじょうぶ、ここはせかいのまんなか。うつくしいばしょ。きみのてのなかに ある。" さばくのかげ、うみのそこのおか に おとこのこが おとずれた。おんなのこが いしのはなをつんで わにして あんでいる。 "くびかざり つくるのかい?" おとこのこが たずねた。"いいえ。" おんなのこは すこし わらう。 "あなたのかんむり あむのよ" やがて ときが ふたりに おとずれて、おんなのこは いしのはなに なった。うみのそこのおかをわたって おんなのこが やってくる。 "なぜ ないているの?" "ないていないよ。なにか わすれてしまったのだけが さびしいのに やさしいんだよ。" そしてときは くりかえし ふたりを おとずれて ふたりは おたがいを くりかえし くりかえし おとずれ。 あおいかげ うかぶ おかをこえて、おんなのこがくる。 あおいひかり たずさえて、おとこのこがくる。 "もう だいじょうぶ。" 「…不思議な話だな。」 ひきこまれたようになっていた室内に、アーサーの言葉で時が戻った。 「ええ。」 穏やかに笑って、が本を閉じる。 「あまりに子供向けではないといって、ハネられたのですって。伯母がくりかえし見た、夢の話だそうですけれど…、」 ふふ、と笑ってが肩を揺らした。首を傾げたアーサーに、彼女が少し親しげにめくばせしてみせる。 「小さい頃からこればかり読んでいたせいか、私もこの夢、見るんですよ。」 まだ夢から覚めたばかりのような目をしていた弟が、すこしだけ、肩を揺らした。 ああ。と思い出したように、「写真が一枚だけ、」そう言って差し出された写真のなかで、永遠に静止した時の中、静かに微笑を浮かべる人はたしかにうつくしく、そのまなざしは目の前の人に似ていた。 |
絵本の冒頭→さかいゆう"HOW Beautiful"より。めちゃいい曲! |