(remember)  


 青年は、少女のベッドの隣に立っていた。
「あなた覚えている?」
 見上げて少女が尋ねる。
「なにも覚えていないよ。」
「初めて会ったときのことは?」
「なにも覚えていないんだ。」
「そう。」
 そうなの、ともう一度、青白い頬で少女が呟く。青年は、なにかとても悪いことをしているような気がして帽子を握りしめるけれど、それに気づいて少女が顔を上げた。痩せてしまった頬に、それでも優しく光は落ちる。賢そうな目玉は、ただあかるい。
「でもだいじょうぶ。」
 にっこりと花のようにわらっって言う。
「私がおぼえているもの。」
 その微笑になんだか泣きたくなった。



「やあ。」
 ふいに白昼夢から覚めて老人は、驚いたというように、自らの膝で遊んでいたまだ小さな孫娘を見下ろす。その目には、初めて目にするものを前にしたような純粋なおどろきと、それから思わぬところに懐かしいものを見つけたものの浮かべる、親しみとよろこびが浮かんでいた。
「やあ、なんだ。君だったのか。目の辺りが少し似ているような気はしていたんだがまさか君とはね。」
 豊かなひげに手をやって、「ふぅむ、」と唸る。
「なぁに、おじいちゃん?」
 丸い目玉をくりくりとさせて、見上げた孫娘に笑って、大きな乾いた手のひらで、まだやわらかい髪をなぜてやる。
「なに、なんでもないさ。」
 そう笑って、彼は少しその青い目玉を優しく細めた。
「君の結婚式に出るまで長生きしなくてはなあと思っただけだよ。」
 おじいちゃん、おかしい。笑った子供の頬はばら色をしている。



 あたたかい日差しに、うたた寝していたようだ。
 公園のベンチに、婦人は座っていた。杖の滑らかな感触を楽しむように、時折指先でそっと撫ぜる。目の前を子供が駆けていって、鳩が舞った。ふいに時間が、ゆっくりとスロウになる。鳩が舞う。彼女のすぐ耳元を掠めて通り過ぎる。軽い羽音。子供が転ぶのが見えた。青い目の子供。ゆっくりと転んで、地についた瞬間時が戻った。
 子供が大きな声で泣き出す。
「あらあら。」
 目をまんまるにして、もう一度。「あらあら。」優しい響き。ゆっくりと立ち上がると、杖をついて、婦人は子供に近づいた。
「泣き虫さん、泣いてはだめですよ。」
 声をかけられて、子供がきょとりと泣き止む。雪の積もった髪の、穏やかな微笑した老婦人を見上げた子供は、また口をへの字にした。
「泣き虫じゃないよ!」
「あら?そうかしら。」
「泣かないよ!」
 そう、いい子ねえ。そうおっとりと笑った婦人に、子供が今度は唇を尖らせた。
「なんだい、今度はちょっとそっちが年上だからって。」
 その言葉に彼女が声を立てて笑い、子供もわらった。迎えにきた母親が首を傾げるほど、子供はにこにこと笑って老女に手を振った。



 病気がちの少年は今日も窓辺に寄りかかってある人が通るのを待つ。その美しい人は、さっそうと髪を後ろになびかせ、スーツを着こなして高いかかとを鳴らし歩く。フィフス・アベニューの方へ向かう背中に行ってらっしゃいを言い、帰り、行きの道よりも心なしゆっくりと歩く背中にお帰りなさいを言う。
 彼女はいつ気づくだろう。高い窓辺から見下ろす自分に。
 窓枠に頭を預けて夢想するだけで楽しい。僕が彼女だとわかったように、彼女も僕だとわかるだろうか。
「まあまあ!窓を閉めてください坊ちゃま!風邪をひきます!」
 真っ白でふかふかのクッションに沈みながら、「カーテンはひかないで、」とすこしあわれっぽく懇願する。風除けのカーテンは分厚くって、外が見えやしない。おまけに中のやさしいばら色の光だって、外には見えない。それって困るよ。
 お帰りなさいを言うとき、部屋の灯りが一番星に見えればいいなと思って。



 潮風の中に一瞬なにか映像を見た気がしたが、それより目の前の自分の楽しみがいなくなることの方が娘には重大だった。
「大陸へ渡るの?」
 ほろりと娘の目から涙が落ちた。うつくしい涙。それを宝物にして、首に下げて持っていけないものだろうか。男は少し笑う。日に焼けた腕がたくましかった。
「君も来る?」
「…いじわるね、知っているくせに。」
 娘は真っ白なドレスをまとい、男は水夫の格好をしている。
「丘の上のお嬢さんには、無理な話だったかな?」
「もう!」
 父と娘といってもおかしくないくらいの年の隔たりがある二人だったが、気軽な友達に対するような会話をした。傍から見たら、少しおかしな構図だろう。しかし二人は、まったく気にしていないよう。周囲のものたちも、屋敷のお嬢さんの好奇心旺盛なことには慣れっこだから、ほほえましくみまもるばかり。
 大きなリボンのついた娘の帽子が、風にゆがんでいるので少し男はなおしてやる。
「土産をいっぱい持ってきてやるよ。」
「子供扱いして!」
「お嬢ちゃんは、はやく家に帰りな。」
 舟を見送って、その影が水平線に消えた頃、ふいに娘は思い出す。あの人が誰だったのか。



「独立記念日おめでとう!」
 と彼のほうが言って、彼女の方は肩をすくめる。
「まだ7月には早いわよ?」
「何言ってるの。僕の!独立記念日さ!!」
 両腕を広げて笑った彼に、おかしそうに彼女は肩を揺らす。
「なに笑ってるんだい姉さん!」
「いえいえ。ごめんなさい?最愛なる弟君の独立に乾杯。」
 ワオありがとう!と彼が笑う。荷物を運び込んだばかりの部屋は、まだダンボールがあちこちに積まれていてそれらの荷物をさけるように姉弟は座っている。
「言っておくけど一人暮らしって楽じゃないわよ?」
「いいんだよ。」
 ケロリとして弟の方が笑う。
「大変だーって思ったら姉さん呼ぶからね!」
 どこが独立なんだか。やれやれといいながら、姉のほうもなんだか楽しそうだった。



 やくそくよ、と少女が言って、やくそく、と少年が返す。
 ここはいつかのお花畑で、二人は爪草を輪にして編んだ。兵隊の人形は足が取れていて、でもかまわなかった。
 まだ小さな二人が戯れているのを遠くから見れば、それはとても年相応でかわいらしい光景だ。春の日差し。揺れる草原。
「次はいつになるのかしら。」
「さあ。いつだろう。」
「今度はどちらが先かしら。」
「最近同世代が続いたものねえ。」
「そうねえ。そろそろまた差が開きそうな気がしているのよ、J。」
「そんなこと言わないでくれよ、R。僕らなにせまだこんなに若いんだからね。」
 年齢にそぐわない落ち着いた口調。どこか達観した囁き。
「今一緒なんだからいいじゃないか。」
 その通りね、と笑った三日後に少女は。



「かあさんかあさん!」
 まあなあに、と母親が体を屈めて子供の目を覗き込んだ。青い目。変わらないものは確かにあるのだと、彼女は思う。
「白い鳥が落っこちてきたんだ!どうしよう!」
「まあ!」
 目を丸くして、手についたしゃぼんをエプロンでぬぐうと、母親はさっと長いスカートの裾を持ち上げた。
「鳥さんはどこなの?」
「あっちだよ!木にひっかかってるの!」
 それは大変、と二人は駆け出す。それから思い出したように、「お父さん呼んできてちょうだい」と母親が言い、わかった、と子供がさっき来た道を引き返した。その後姿を見ながら、頬に手をやって、ちょっと母親が呆れたように笑う。
「…それにしても。」
 小さな背中が遠ざかる。彼とそっくり同じの青い目をした父親を連れてくるのだろう。彼と彼女はこの辺りでも評判の仲良し夫婦である。
「まっさか自分のお腹から出てくるとは思わなかったわ。」
 楽しくって笑ったら、いい天気で、太陽がぴかぴかと光った。



 生まれてきた子どもを抱き上げて、歓声を上げる。くるりと回って、それからその黒い髪を太陽に透かして、おやと気づく。
「なんだい、君かい!」
 真っ青な目の父親が目を丸くした。
「こりゃ結婚式は大荒れだぞ!」
 あなた今からそんなこと考えてどうするの、と笑った妻の額に、彼はちょこんと口をつけた。


「ミスター、ハンカチを落としたわ。」
 おやありがとう、と振り返りかけて、彼ははたと気づく。少女も同じようで、あら、と口元をほころばせた。
「君かい。ありがとう。」
「あなただったのね。うっかりなの、そんな年になっても変わらないのねぇ。」
「返す言葉も無い!」


 テレビの中で熱弁を揮う若い弁士を見、一回手元の編み物に目を戻し、それからもう一度テレビを見て、その白黒が浮かび上がらせる男の顔、老婆は編み物を膝の上に落とした。あらいけない、何目まで編んだか忘れてしまったわ。
「あの人ったら、好きねえ。」


 屋敷の庭で水をやる、少女に恋をしていた。みんな声をかけに行けって言うんだけど、だって彼女はお屋敷のお嬢様で、バレエなんてやっていて、おとなしそうで、きれいで。アイスホッケー好きかな、と彼は少し、門の前で悩んでいる。

 肩がぶつかって、お互い録に顔も見ず謝って早足に通り過ぎた。その後で慌てて引き返す。

 今回は会えなかったなあ、さびしいなあ。膝の上で猫が鳴く。
「…まっさかあ…。」
 にゃお。

「いらっしゃいませ…あら?」

「やあ、」
「あら。」

「また会ったねぇ。」