「ダオス殿。」
自らを呼ぶ声にダオスがやんわりとほほえみをかえす。
この長い長い年月の間に、彼はどこか疲れた、心を摩耗してしまったような朧な表情を浮かべるようになっていた。長命種の一生は長い。彼は長く長くこの星にいた。あまりに長かった。その時間、その年月。彼はひどくとても老いていた。しかしなお生きている。そしてここにいた。
「探しましたよ。」
老兵が少し笑うと、ダオスは大樹の幹をを優しく手のひらで叩いた。
「ええ、あなたはいつだってここにおられますから。」
その返答に、ダオスは困ったようにほほえんだ。
見事な金の髪をしていた、彼の頭は、今は雪をまぶしたよう。金と銀とに輝いている。
昔英雄としてこの星に、魔力を蘇らせたこの人は、今では大樹の守り人となり、長い間に口数も減り、いつか樹とのみ言葉を交わすようになった。彼の言葉を、聴くものは少ない。父王が兄王が亡くなりその息子が跡目を継ぎ、脈々と受け継がれ営まれる暮らしから一線を引くように、彼はただ黙ってここにいた。
ダオス。
この星で名を知らぬものはない。
星の英雄、ダオスだ。
そして、この老兵士はダオスの元に足しげく通い、彼を王都へ呼び戻すという仕事を担っていたが、はや数百年、王も彼も、ダオスを呼び戻すことは諦めていた。
あの光景を見たものなら、誰でも呼び戻そうだなんて思わない。大樹に呑まれた娘と、英雄の間で交わされたあのかなしいほどにやさしいほほえみ。あれを見、ダオスの声にならない叫びを聞いた者なら、誰も彼をこの樹から引き離そうだなどとは思わない。
だから、彼は今ではダオスの連絡係りというのか、彼の様子見をするのが役目だ。
時折訪ねては、なにをするでもない。
彼が話せば彼の話を聞くし、話さなければ隣りに座って樹を眺めた。

少年兵の頃のあこがれは、今もなお、おだやかにあたたかく、彼の胸にある。
英雄を、我が弟を城へ招くのだ、王命を受けたときの、あの心の震動は、なんと心地よいものだっただろう。その王ももういない。その王の息子は時折この階級が酷く下の老兵士に独り言のように呟いてはほほ笑む。
『なあ、オビトよ。』
それが彼の名だった。
『私はまだあの頃幼かった。そなたよりもずっとだ。けれどな、覚えているよ。叔父上の顔もあの娘の顔も。』
お前は覚えているか?その言葉に、オビトはいつもただほほ笑み頷いた。

よく覚えている。初めに帰ったダオスを娘から受け取ったのは、ほかならぬ彼だったのだから。内側からすでにあわく発光していた娘。その目玉に浮かんだ穏やかな微笑。きっとこの世のものではないのだろうと思った。よく覚えている。

ダオスほどではないにしろ、老いた彼にこの任はひどく優しかった。
ダオスを包む空気はやさしく、この空間も、木々の梢のざわめきも、まるで海のよう。拒むことなくいつも両手を広げて、ゆったりと彼を迎え入れた。緑の光に、水を吸い込むみたく心がみたされてゆく。
毎年毎年、日向の若葉が香る季節に、彼はダオスを訪ねた。
ダオスは彼を覚え、いつもおだやかにほほえみ迎える。

そうして、静かに積み重ねられた長い間に、彼はダオスからひとつの物語を聞き出した。
彼の地の大樹には、ひとりの女神が棲んでいた。
大樹とその女神は、ふたつでひとつだった。
そして、この地に生じた大樹も、いつか言葉と姿を持つのだという。
樹となった娘が、樹として再び人の姿で、現れるのだと。
魔力がこの世界の隅々に、我々の六十兆の細胞のすべてにまで満ち満ちて、風に水に大気に命に明確な意志と形とが、精霊といわれるものが生まれた時、すべての精霊の母として、再び娘が現れる。
彼女の再来を、英雄はずっとずっと待っているのだ。
力強かった腕は、堅くひび割れて。
声も枯れ、しわは深く。
けれども彼の目だけは、疲れてはいても、小さな期待に白くきらめいている。
「私は彼女を待っている。ずっと、もうずっとだ。」
英雄は古い歌を歌っている。
低く掠れたよく通る声は、さんびかのような響きで緑の隙間に染みる。
教えてもらったうただよ、名前も知らないが、よい歌だ。
ダオスはそう言って、わらう。
旋律だけの歌。

オビトは時折、任務の最中無意識にそれを口ずさんでいて、部下にわらわれることがある。
その度彼は、樹の下にいるだろう彼のことを、やさしいあこがれをにじませて、思い出すのだ。


31.オビト




20070429/