00.稀人、西方より来る

 その娘は遙か西南西から訪ね来た。手には槍、短い髪を背中を押す風に任せて。娘はぴんと伸ばした背筋で、沈む光を背にただその先を見つめている。紫の瞳を夕日の中不思議に光らせ、黄昏る薄野の中に。

 最初に彼女を見出したのは、武田信玄その人であった。
 枯れた狐色の野っぱらに、彼は夕日を受けて金に輝く白い毛並みを見た。彼は始め、それを岩だと思い次には大きな生き物と気づいた。しかしその雪に晒したような白はなんだ。
 まさか巨きな兎ではあるまい。馬が怪我でもして倒れているのだろうか?しかし傷ついたような気配は感じられず、そもそも馬であるならあのようなうずくまり方はできまい。ただ、息を潜めている獣。
 うずくまった形は熊のように見え、白鹿や白蛇はあれど白熊と言うのは聞いたことがない、と彼こそ熊のような図体をして首を傾げた。馬上から望む野原は夕焼けに染まって美しく、薄の穂先は鋳溶かした黄金に似ている。
 さらさらと金粉が舞い――遠くの空の錦。ざわめく草の中に、白い塊ばかり、ひとつ。
 背に背負った巨大な扇を、一閃しようとしなかったのはなぜだろうか。それが生物であるという確信が奇妙に思われるほどその白は動かず、やはり岩とも思われたからかもしれない。彼は付き従っていた兵に目で指し示す。
 ――あれを射よ。
 主の眺める先に彼は白い岩を見た。しかし少し不思議そうに微笑し首を傾げながらも、弓をつがえ強く引き絞ったかと思うとびゅうと放つ。まっすぐに風を裂いて飛んだそれは、そのまま岩をも貫こうかと思われた。白は動かず、しかし信玄の片眉と背の高い薄に隠れてその瞬間まで気がつかれなかったものが跳ね上がって動いた。
 西日を照り返して刃が、一瞬、燦然と閃く。
 ガキイ、と刃の先が中空の弓を払い、そのことに目を見張った弓兵の目に、草の影から立ち上がる小柄な人影が映った。

「――…お見事。」
 むっつりと黙っていた信玄が、深いよく通る声で頷き、怪訝そうに人影が首を傾けた。
 顎の下あたりで童のように切りそろえられた黒髪が、さらさらと揺れる。弓を弾き落としたのだろう槍を杖のようにして、そこにまだ少女と言ってもいいほどの娘が立っていた。ひどく無表情なのが逆光の中印象的で、整った顔立ちをしているのが影でわかる。ゆったりとした大陸風の服の裾が、風に靡いた。おそらく彼女には、少し大きいのだろう、腰の辺りを邪魔にならないように麻紐で結んで丈を上げている。もとは白の綾織だったろうそれは、赤光のためか別のためか黄色く褪せて見えた。馬に似た黒い目。じっとその両の目玉が、彼らを値踏みしている。風鳴りばかりがどどうと鳴った。一種の壊しがたい静寂。
 永遠に続くかと思われた沈黙を破ったのは、娘以外誰も予期し得ぬ存在だった。その声はどこか籠もって低く、遠雷の轟きにも似ていた。

『突然攻撃しておいて見事とは、いささか勝手と無礼が過ぎるのではないか?』

 最初信玄とその従者らは、その声がどこで鳴ったかわからなかった。娘の口が動いた様子はなく、またその華奢な風貌から先ほどの声は想像もつかない。
 キョロキョロとあたりを見渡す従者たちに対して、獰猛な唸り声に似た笑い声が届く。それはいかにも、声の主を見付けられない彼らを笑っており、その音は今度は近くで雷の鳴ったようで彼らを乗せた馬もぎょっと身を強ばらせる。しかしその間も、彼らの主はびくともせずうっすらと瞼を閉じてすらいた。馬上で腕組みをしたまま、まったく堂々たる態度である。真っ赤な鬘の戦装束とは違い、兜も鎧も付けぬ簡素な略服を着込んだ彼ではあるが、その姿はまさに、甲斐の虎、猛将武田信玄その人であった。
 それにまた、いかづちが近くで笑う。娘は能面のように動かない不思議な静謐を清らかな面差しにたたえている。
 薄が揺れた。娘の隣の岩――いいやなんらかの生物が動いたのであった。くふっくふっと熱い鼻息が聞こえ、山が持ち上がるように白い塊がぐーんと伸びをする。
 それは雪原の白、氷河の白、あの険しい山々の頂の白であった。
 馬が驚いて、前足をもたげる。本能的に、初めて見るその生物の危険性を察知したのである。ほう、と感嘆の声を漏らす信玄の脇で、供の二人は狼狽していた。その生物を見るのは彼らとて初めてであったし、しかしやはりその危険性を重々承知していたのである。
 ―――虎だ。
 呟いたのはどちらであろう。娘の隣に山の如く鎮座しているのはまさしくこの国では障壁の中にのみ住まう獣であった。その牙の鋭きこと鍛え抜かれた刃のごとく、その眼光鋭きこと雷の射抜くごとく、その逞しい体は正に山であり、力の漲った四肢の凄まじい野性を彼らは見目だけで察した。薄に隠れた爪も腕も脚も、馬の十頭をしてかなうまい。
 さらにその虎は、白かった。これまでみたどの白い生物よりも、力に満ちた白である。白蛇の夢告げ、白鹿の神聖、白馬の優美。それらの持つ儚さを、微塵も感じさせぬ強き白だった。それが象徴するのは一体何か――力と神聖、静寂と彷徨、高潔と凶暴、野生と英知。この世のすべての白を置いて、透明やら遠慮やら儚さやらとは縁のない白である。それは図々しいほどに神々しく白かった。それは白という色だった。漂白された故のたおやかさも優美さも持たぬ。横暴な白の王たる白である。
 姿を現した生物に一瞬場が凍り。
 次には信玄と虎の、どこかよく似た呵々という大きな笑い声が響いたのだった。呆気にとられてよいのか逃げ出してよいのか戦わねばならないのか。唖然とする従者たちに、つられて娘も、口端だけで少し笑う。


(20090515)