01. あれは夢で見た景色


 うおおおお、というなんとも暑苦しい雄たけびは、別に戦闘が始まっただとかそういうわけではない。

「なんとっ!なんとおおおおお!女子の身でそのような苦労をされながらよくぞ!よくぞここまでええええええ!!!」

 拳で膝を叩きながら歯を食いしばり顔をぐしゃぐしゃにして涙を流しているのは、なにもその真っ赤な装束の青年ばかりではない。宴の席ではほとんどの列席者が同じように感極まって男らしい雄たけびを上げている。その野太くて煩くて暑苦しいむせび泣きの中心で、娘は涼やかな顔立ちを崩すことなくまっすぐに背筋を伸ばし足を組んで座っていた。
 現在進行形で武田の男たちの賞賛の的となっている娘は、その名をと名乗った。


 今日は宴ぞ、と帰宅するなりの信玄の一言で、あっという間に躑躅の館に宴の準備は整った。
 さて今日はなんの宴でござろうかと集まったもののふたちの熱い視線を受けて、どっしりと座った信玄が開口一番告げたひとこと。

「此度我が武田軍に、新しく将を招くことと相成った。」

 ほう、というその初めて聞くお館様のお話に熱心に頷くものほぼ100パーセント。俺様そんなことひとことも聞いてないんですけど、と笑顔がもはや諦めを含んでカラッカラの忍が若干一名。いつものことながら、あまりにも分のなさすぎる人数差に、屋根裏で彼の部下がこっそり涙した。

「恐れながらァ!!」
 と、ここで大声上げて立ち上がったのは紅蓮の鉢巻を締め、赤い衣装に身を包んだまだ若い男である。彼こそが音に聞こえた武田の一番槍、真田幸村なのだが、まあるい目玉と生来の顔立ちが幼い彼は、普段の生活のうえでは凛々しい、よりもどうにもかわいらしい印象が勝る。短く切られた髪の毛なんて、あっちこっちに飛び跳ねて、犬の耳に見えないこともない。
 ガシャンと音を立てて派手に立ち上がった彼は、拳を握って"お館様"に熱い視線を注いだ。戦でもないのに戦装束でどうする。しかしそれに突っ込むものはおらず、ただ幸村の視線を受けて信玄も、どうした幸村、と心持ち熱く頷く。二人の背景に、熱く燃える炎が浮かぶ。
 ここではいつも通りのその光景を眺めながら、しかしいつもより、切実な思いでそれを見つめている男がひとりいた。もちろん先の、たったひとりの忍である。
 ああ、旦那。旦那 。『恐れながらこの某がおりますれば武田に新たな将なぞ必要ありませんぞ!たぁぎぅぃるああああああああ!!』 とか言ってその得体のしれない新しい将とやらをぶっ飛ばしたりなんてしてくれないかな。くれないかなぁ。
 末席に座り、やっぱりほとんど諦めながら、それでも期待せずにはいられないらしい。そんな様子の忍に、やはり屋根裏で、彼の部下が涙をのむ。
「この幸村、」
 そう、涙を呑んでその次に出るであろう言葉を待つ。天井上の彼の上司である忍の期待も儚く、きっと真田幸村は大きな声で言うだろう。暗い天井裏で、彼は予想されうる展開にやはりそっと涙を拭う。

「まっっっことその新たな将のことが気になりますぞお館さぶあああああ!!!」

 あ、やっぱりね。
 そう完璧に燃え尽きた笑顔で笑った忍を余所に、「うむ!その気持ちは分かるがそう急くな、幸村アアア!」 「すみませぬお館さぶあああああ!」 などといつものやり取りが始まった。
 そのまま修行突入か、とも思われたが、信玄がふと、開かれた庭へ目を移して、ふっと目を細めたので、幸村もん?と拳を握ったまま庭を振り返る。その視線につられるように、自然みなの視線も、庭へ。
 一番末席に座っていた忍は居並ぶ将たちの視線を一気に受けるような形になってしまって、「え?なに?俺様の顔になにかついてます?」 などと的外れな反応を返すも、もちろんみなの視線は、忍を通り越して縁側のその向こう。紅葉の燃えるような庭へ注がれている。
 しかもなんだかきょとーんとしている。
 屈強な男たちが揃いも揃ってきょとーんである。信玄ばかりがただただ満足そうに目を細めていて、後はやっぱりきょとーん。
「…。」
 ただでさえ大きな目をまん丸にして、庭を (めずらしく) 静かに、黙って、食い入るように見つめている真田幸村に、忍も「んんん?」とゆっくり振り返った。
 振り返って、そして、
 幸村と同じように沈黙した。


『武田の将たちというのはみな声がでかいな。』
「…すこしうるさい。」

 雷のゴロゴロ言うような腹の底に響く声。そっけない感じのするガラスのような声。
 赤く赤く、秋の燃え立つ夜の庭には、真っ白い影が二つ。
 ひとりは人の形をしている。線の細い小柄な影は、少年とも少女とも見受けられる。それこそびっくりするような、すずやかで清らかな、うつくしい顔立ちをした美貌のこどもである。
 しかし武田の猛者たちをポカンと黙らせているのはその人影ではない。その子供が片手をその首の裏に、気軽に、まるで犬にでもするように乗っけているその獣が、ひどく大きくてひどく白くて、爪なんてすごいし牙だってすごい、なんだか目なんて爛々と輝くような青だし腕なんてこどもの胴より太いんじゃないかというくらいあるし、見たことあるけど見たことない、実際彼らの主がそれに喩えられたりなんてするけれど、障壁画だとかなんだかどこかで見たことはあるけど、実際今までみたことない。なんていうか、すごく、その。

「…とら?」

 忍が目を点にして、呟いたひとことに、庭のその真っ白なけだものが恐ろしい歯を剥き出しにして (どうやら笑ったつもりらしい) ひとこと。

『なんだ、兎にでも見えるか?小童、』

 喋った。
 確かにその人間の頭なんて軽く噛み千切りそうな口が動くのにあわせて声がする。小童なんて呼ばれたのも気づかないくらい、忍の男は口をぽかりと開いた。それこそ顎が外れるくらい。しかしそれでもその獣は笑って、

『虎だ。』
「「「虎ああああああ!!?」」」
 響き渡る野太い大絶叫。
 庭の紅葉を吹き飛ばすかというようなその大音量に、思わず耳を塞いで、自分の身の丈ほどもあろうかという槍を背負ったその小柄な美しい人がぽつり。
「…声がでかい。」


「いやいやいやいやおかしいでしょ!虎っておかしいでしょ!!?」
「さささ、佐助!虎っ!虎っ!!?」
「そんなの言われなくてもわかってるから旦那!!」
「虎でござるうううううう!!!」
「喋ったでござるうううううううううううう!!?」
 大混乱。大混乱である。おまけに声がでかい。人差し指でしっかり耳栓した無表情な人物が、ちらりと信玄を見上げると、信玄はひとつ頷きすうと息を吸い込んだ。虎も器用に、その耳をぺたりと下げる。

「静まれえええええええええええい!!」

 それこそ虎の、一吼えである。目をまん丸に見開いて、黙って固まった将たちは、次の瞬間にはしっかり膝と手を突いて彼らの主君に頭を垂れた。 『良い軍だの、』 と虎が笑い、その隣で表情の乏しい能面じみた顔をわずか微笑の形にしてこどもがわらった。
 そちらが手のひらで指し示して、館の主が歯を見せて笑う。
「此度我が軍に客将として参った、殿と虎殿だ。」
 下げていた頭だけあげて、男たちは庭へ首を回す。
 夜の中で真っ白に見える大陸風の見慣れぬ衣服を着た人物が、優雅に顔の前で手のひらと拳とを合わせる礼をした。
「峰の国より参りもうした、と申す。」
 峰の国?と聞いたことのない里の名に、彼らが首を傾げる前に、その横で虎が大音声で吼えた。これがほんとの、虎の一吼え。足の先から頭の天辺まで、痺れるような咆哮である。床に手を着いたまま、男たちは自分たちの髪の毛が逆立つのを感じた。彼らの主人ばかりが、なんとも感じぬ巨木のように、どっしり立っているばかり。
『虎。』
 白虎の名乗りは簡潔。ひとことであった。

(2009051520100810)