02. 捨てられた野に立つ人を祝う |
一体何者であろうという将たちの視線をものともせず、娘は悠然とした様子で招かれた座についた。虎もその後を追うと、隣にぺたりと身を伏せる。その様子はやはり、主人の隣に伏せる犬に似ており、しかしその桁違いの大きさ、逞しさときたら筆舌に尽くしがたい。 「ええと、その…つまり、…どちら様で?」 虎と娘の名乗りが終わった後で、しんとした座をとりなすように、ようやく忍が口を開いた。 娘は名をと名乗った。しかし生れだという峰の国などという里は聞いたことがないし、なにより供が、喋る虎なのだから不思議に思うなと言う方が無理のある話だろう。 「佐助よ、今言うたばかりであろう。此度我が武田に将として…」 「いえ、あの、大将。それはわかってるんです。」 困ったように眉毛を下げて、佐助と呼ばれた忍が笑う。 「俺が訊きたいのは、どうしてその殿が武田の将になったのか、ってことで。」 佐助だけではない。武田の将の視線を一身に集めて、しかし娘は元々無表情な顔なのか、涼しい様子だ。皆が興味津々に、虎と娘を見つめている中、忍の男だけが心配そうに、少し目を細くしてひとりと一匹を見ている。 主を守る忍であれば当然のこと、虎がそれに伏せた身を起こし、やはり人の言葉を発した。 『案ずるな、忍。我らお主とその主に仇なす者でもなければ受けた親切と恩を仇で返すような愚か者でもない。将として招かれた以上一騎当千の働きを見せようぞ。』 佐助の疑心も見越したように虎が笑い、娘が端正な顔立ちにわずかに微笑を浮かべて頷く。 まっすぐな短い髪。後ろ髪と同じ長さの前髪ははっきり真ん中で分けられて、美しい額を露わにしている。つくづく綺麗、静閑な顔立ちの娘である。少年のような鋭い冷たさがあり、秋の暮に降りる霜の風情だ。その背中に背負った槍といい、その細腕であると言うのに隙のないこと。 佐助には娘と虎の、強さは一目瞭然だった。馬の代わりに虎を駆ろうと言うのだから、一騎当千もあながちはずれではあるまい。しかしだからこそ気にかかる。 「じゃああんたらは何者なんです?」 尋ねた忍に、虎がニヤリと(虎の表情というものはいまいちわからないがおそらく)再び笑う。 『あまり無礼な口を聞くなよ小僧?』 小僧、などと呼ばれるのは久方ぶりで、佐助は目を丸くした。それに信玄が、呵々と笑う。 『ここにおわすは信玄公直々の客将ぞ。そなた主君の目利きを疑うか。彼女こそ大海を渡り明よりさらに西の方、彼の霊峰大山をさらに入った山の峰の国の末姫様である。』 明、まずその言葉に佐助がぽかりと顔を上げ、娘をみる。娘の表情はまるで動かず、たいそうな口上にも慣れっこの様子。たしかにその白い服は薄汚れてはいるが元は良いものにちがいないし、その顔立ちも伸びた背筋もなんとも高貴なものである。 「明と言うと…あれでござるか。」 「あれで…ござろうか。」 ざわざわと同じような驚きの声が幾つか上がる。一番のうるささを見せていた真田幸村は、身を乗り出して目を輝かせ、虎の話に聞き入っている。 虎の口から語られた話は、それこそまさに、不思議の話。 ―――昔むかし。 国とは言っても小さな山間の隠れ里、山の民が険しい峰峰の狭間、青々と茂る竹林の奥に暮らしていた部族がある。 それが峰の国、と虎の故郷である。 なぜそのような小国が、世は三国乱世の間より細々とではあるが続いてきたかと言えば、偏に理由は虎にある。山の民が駆るのは馬に非ず。鹿でもなければ山犬でも獅子でもなし。彼らが駆るのは虎である。それもその山に降る雪から生まれたような、強く逞しい白虎。国の祖と友情を結んでより長きにわたり、虎たちは彼らのよき伴侶であった。 虎たちは竹林に暮らしているものと、町に暮らすものとに分かれる。町の人間の数と虎の数は同じ。その国の民は、誰もが自らの片割れを持つ。民に子供が産まれると、竹林から一匹、虎が町へ下る。そうしてその子供と虎が、対となるのである。女の子供には雄の、男の子供には雌の虎が。よたよた歩きの幼獣がおぼつかない足取りで小道を下ってくることもあれば、年老いた歴戦の猛者が赤子に甘えることもあった。 とにかく民たちは皆、自らの相棒を持ち――一人と一匹は強い絆によって結ばれ互いに信頼し、愛し合いそして互いのために牙を剥き剣を持った。馬をも片手で引き裂く爪と剣を通さぬ堅い毛皮、強い顎とあまりに凶暴な牙とを持った戦神の乗り物である白虎に跨り、槍と矛、剣を操る山の民はまさに鬼神のごとき強さを誇った。しかし彼らは世の動乱に興味はなく、竹を編み、魚を釣り、―――その暮らしぶりはさながら地仙たちの隠れ里の体であった。 そうして長く暮らしてきたが、つい八年も前のこと。 猛者たちの健闘もむなしく里はついに攻め滅ぼされ、白虎の背により救い出されそのまま落ち延びた齢やっつの末姫は、東へ東へと逃れ、商船に紛れ込み、ついにはこの国の浪速へとたどり着き、そこからは進路を北へ、そうして甲斐にまで流れてきたということらしい。何とも気の遠くなるような旅路である。 そうして亡国の憂き目に会った流浪の身で、追っ手を逃れ遥かに辿りついた東の方、日の国。 『―――その地にてありがたき客将としての招き、もはや生涯家も安息も持てぬと諦めての旅の上でのこの誘いには千に万を重ねても感謝しきれるものではない。それ故我ら信玄公の下でこの地に骨を埋める覚悟で参った。』 そう話を締めくくって、場は、一番最初の、うおおおおおと言う熱い雄たけびの嵐に戻る。 「なんとっ!なんとおおおおお!かよわい女子の身でそのような苦労をされながらよくぞ!よくぞここまでええええええ!!!」 ひと際大声でおんおん泣いているのは、赤い戦装束の青年だ。他のものたちも、床や自らの膝を、拳でバンバン叩きながら男泣きに泣いている。 「そっ、某!某は感激いたしましたお館さぶぁあ!!殿!虎殿!おっ、おふたりは今日から同じ武田の将でござる!!!共に励みましょうぞおおおおお!!!」 「よく言った幸村アアアア!」 「お館さぶあああああ!!!!」 熱い。 いつもの調子で庭に飛び出し、稽古を始めた主従ふたりを、ぽかんと見送る娘の隣に、いつの間に現れたのか、やれやれと忍の男が座っていた。 「いっつもこうなんですよ…うるさいでしょ。あ、俺は武田の忍頭で佐助と申します。」 ちなみにあの真っ赤な鉢巻のうるさい旦那が武田の一番槍、真田幸村ね。 そう紹介しながら佐助の目が上から下までを見た。ちょっと困ったようにも、どこか楽しげにも見える眼差し。 「まっさか明国から将が来るとはねえ。」 『信用しておらぬか?』 「いやいや!職業柄疑り深くってね…大丈夫。自分の大将の心眼は、信用してるよ。」 それに虎は満足そうに 『うむ。』 と頷いた。 やはりいい軍だ、少し娘が微笑む。 宴だという話だったが、いつの間にやら、庭では修行―――という名の大乱闘大会が始まっている。ひとりとして酒の席に残っている将はいない。あれは参加したほうがいいのだろうか、と真面目に尋ねるに、佐助はカラカラと声を立てて笑った。 「いいんですよ!着いたばっかりなんだしゆっくりすれば…さて、しっかし姫の部屋はどこにすればいいかねえ。ちょっと女中頭と相談してくるか。」 そう言って立ち上がりかけた佐助が、ふと振り向くと、が目を丸くしている。 虎はくつくつ笑っていて、はてなにかおかしなことでも言ったろうか。首を傾げた彼に「いいや」とが口を開く。少年のように清らかな声ざまで、異国の者らしく多少のぎこちなさがある。 「もう国はない。だから姫もいない。ただの。と呼ぶ、それで構わない。」 背筋をぴんと伸ばして言い放つことでもあるまいに。その目玉をまじまじとのぞき込んで初めて、佐助はその目玉に金の輪があるのに気づいた。太陽の冠のような、薄い筋がある。 「…じゃあ遠慮なくちゃんて呼ばせてもらおっかな!」 わずかばかりの不思議な沈黙の後で、佐助が愉快そうに笑った。 その後に信玄が、聞いていたのか庭から大音声で 「忘れるでないぞ佐助!は武田軍が将よ!」 と笑い、娘もつられてか少し笑う。 「よろしくな、佐助。」 あららと少し目を丸くして、忍もわらった。 |
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