空は青い青い。雲は白い白い。雲を渡って神様はやってくる裁きの道をやってくる。(おおどうぞ見つけたもうな!)

***

、お前は生まれ変わりを信じるか?」
まるで先までの会話との継ぎ目がスムーズで、そのまま適当に相槌を打ちそうになった。危うく言葉を飲み込んで、は顔をしかめる。
「は?」
「俺が聞いてるんだ、答えろ。信じるか?」
目の前の男は真剣そうに見えた。飄々としている彼がいつになく落ち着いた目をしているように見える。だからなんだというのか。「…いいえ。」と答えたに、彼はいつも通りニヤと笑っただけだった。少し会話は途切れて、(そもそも会話などなかった。一歩的に男が喋り、彼女はそれを聞き流して歩いていた。)なんとなく居心地の悪い余白が降りる。
は男を長く伸びた前髪に透かして盗み見た。彼はのんびりとした足取りで、緑の並木の下を歩いている。グラウンドではカン、と白球を打ち上げる快音が響いた。
「そうか。…いや、そうだろうな。」
ポツンとそれだけ、男は言った。
「…俺もだ。いや、俺もだった、というべきか?」
そうしてやっと伊達の片目がを見る。
(ああ私はこの目が嫌いだ。)
は下唇を少し噛む。いっそ残ったこの片方も潰してやろうか、冗談と言うには強い気持ちで、衝動的に時折どうしようもなくそう思う。


3ヶ月ほど前に転向して来たこの男は、挨拶のため教壇に立ち少し物憂げに顔を上げた。そしてぐるりと、転校生が抱くであろう緊張や怯えや期待、不安、はにかみ、そんなもの微塵も感じさせず王者のように堂々と、退屈そうに机に並ぶ顔を見渡した。その堂々と言うべきかそれとも偉そうと言うべきか、尊大な態度にやや気圧されて、教室が小さくどよめく。(もちろん彼の見目が美しいのもあったかもしれない、その右目の白い眼帯のせいかもしれない。)
そしてその彼は、を見て、少し、驚いた顔をした。しかしすぐさまそれは、心底嬉しそうな微笑に変わる。『みつけた。』声には出さずに、口がそう言ったように見えた。その微笑に、一部の女子がきゃあと沸く。
しかしそれは、にとっては(ああしまった。)となにか失敗したような、そんな感覚を呼び起こすものでしかなかった。しまった、と確かにそう思った。僅かながらの小さなの城が、がらがらと崩れていく、そんな一瞬で。しかしその一瞬の敗北感は大きかった。彼女は今まで、負けたことなどなかった。ひょっとしたら、戦ったことがなかっただけかもしれないが、彼女はうまくやってきたはずだったのだ。静かに静かに、目立たず騒がずなにも間違わないように。
しかし間違った。
だてまさむね、戦国武将とおんなじその名に教室が沸く。
その男に会ってしまった。
たしかにそれは間違いようもない、失敗だ。
この男が来てからというもの、の周辺はひどく騒がしくなった。その最初の瞬間から。そう、彼女が負けた瞬間から。
『俺はあそこに座りたい。』
まっすぐ指したその指の先、窓際の最後尾、そしてそれは。(のとなり。)
『ちょ、冗談!おれ座ってるんですけどオォ!!?』
あっけに取られた佐助をひょいとかわして、そしてどっかり座り込み、(『ね、佐助くん。彼外国が長かったんですって、ね、堪忍してやって、ね。』先生のあせった声。)を見やってニマリと笑ったこの男。

*

なにかとろくな用もないのにには話しかけてくる触ってくる構ってくる。へんてこりんな英語交じりの言葉を話す、からしたら自信過剰の変な男だ。だのにたいそうよくもてた。転校生と名前と言うふたつのインパクトがなくたって、彼が彼であるなら男にだって女にだって人気が出るだろう。それでも伊達は、なにかとに構った。
おまけにはこうして帰り道までくっついてきて隣を歩く。
邪魔で不愉快なことこの上ないこの男をどうすればいい?にはもうそうすればいいのかわからない。今まで必死に、目立たないように目立たないように知られないように。そんな風にひっそりと生きてきたというのにこのやたら目立つ男はを人の目に晒す。(ああやめてくれ。もうたくさんだ。)漠然と感じている、物心つく前から。浮世疲れのような、倦怠感。誰にも見られたくないの知られたくないの。どうか見ないで。見ないで。私を知らないと言って。
なのになのにこの男。
懲りずに意味の通じない質問をしてくる男をため息混じりには少し睨む。
無視すると余計性質が悪いのはここ3ヶ月で学習していた。適当に話しに付き合って、適当に切り上げるに限るのだ。(いつもそううまくはいかないが。)



「じゃあ今は信じてるの?」
「believe、か。違うなconviction、確信している。」

「  へぇ?」

ふいに日が陰って青空の影が落ちた。
水底のような光の青い乱反射。急にざわりと空気が泡立ち、風が小さく伊達の背から吹きだす。
伊達は少し、黒の中で何か光るような青いような目玉をしていた。それに今気がついて、はふっと息を呑む。暗い深い地下の誰にも知られない泉と言うのは、ひょっとしたらこういう色をしているのかもしれない、漠然とそう思った。

「…お前を知ってる。。名前も一緒だ。」
「へぇ。」
「信じてねぇな。」
クッと伊達が喉の奥で笑う。
なぜだろうこの青光の中で伊達の動きは酷くゆったりと残像を残すようにスローに見える 。ああなぜ彼が少し首を傾けるだけで青が色濃く尾を引いて見えるのか。
は少し後退る。
よくないことだ、なにかよくないことがおこる。そんな予感、予感だ、予感がしている。

「あんたとそっくりそのまま、名前も、形も、声も、笑顔も、生き写しの女がいたぜ。400年程前にもな。」
伊達が一歩、との距離を詰める。堂々とした立ち振る舞いは、同い年の中でいつも、現れたその瞬間から圧倒的な存在感を放って浮いていた。
こいつはやっぱり頭がおかしい、ちぐはぐなことを考えながらは顔をもっとしかめた。私はあんたを馬鹿にしている、そういう意思表示の顔をした。なのに伊達はまるで気にしたそぶりもなくて、ただ淡々と話を進めただけだった。
それはとても、には敗北だ。
「はア?400年前?」
「Right.400年前だ。そいつの願いは誰にも知られないように小さくなって消えることだった。そいつはいつだって舞台の真ん中で輝いてたくせにそこから降りることばかり望んでた。」
foolish.ポツンと彼はいとおしそうに呟く。

「そいつは最後まで真ん中で輝いてた。そしてそのまま死んだ。俺の目の前で。俺ァ子供だった。今思ってみてもほんとにどうしようもねぇな。俺はそいつがすきだったんだ。いつも見上げていた。」
そこで区切ると伊達は不遠慮にを見た。ひどくまっすぐな見つめ方だった。子供みたいだ、子供の相手をするのが苦手なは、少し息を詰める。
「で?あいつの願いは叶ったわけだ。…、なぜお前は自分を隠してる?なぜそんなに隅で静かにしてやがるんだ? 」
他の奴らが馬鹿なことすりゃ怒鳴ってやりたくて、理不尽や横暴があれば粉砕してやりたくて、楽しいことがあればそれを抱きしめたくて、悲しいことがあれば両手をあげて泣きたいくせに。
伊達が茶化すようにでもなく馬鹿にするようにでもなく、真剣な様子でそう言った。見透かしたようなことを、言う 。(は、)
ゆらゆらと、の基盤が揺さぶられている。
自分ですら動かせない、動かそうとも思わないこれまでのを構成していたものを、この男は言葉の力だけでくずそうとしている。
はいつの間にかこの男の言葉を流せなくなっていた。ああいけない。良くない兆候だ。落ち着け、と焦るほど呼吸が困難になる。
(落ち着け、落ち着け、おちつ、)
「私のなにを知ってるっていうの?」
声は震えた。はなぜだろう、あんまり情けなくて泣きたくなった。
「3ヵ月分。そいつのことは、そうだな13年くらいは知ってる。内面はどっちも少ししかしらねぇな。」
彼は苦笑する。
「なんで大人しくきれいな着物を来てねえんだって聞いたらな、やりたいことだけをやってきたはずだが今やっていることをやりたかったわけじゃない、なぜこのてがひとをほふるようになったのかわからない、なぜこうなったのかなんてだれもしらない、ただここにいるからにはやるべきことそしてやらずにはいれないことをやるしかないんだとか言ってた。そいつは女ながらに立派な武将だったんだよ。」

そうして伊達は目を懐かしそうに細めて、勝手な作り話をする。
この現代にまで言わずと知れた伊達政宗が、自身であるなどなんて馬鹿馬鹿しい。は笑い飛ばそうとして失敗した。伊達の左目があんまり穏やかだからだ。
疾患。失明。厳しい修行の時代。いつも彼を支え寄り添った側近、彼の右目。その彼と共に厳しい境遇の中幼い頃から政宗を守り叱り励まし信じ鍛え上げた美しい女武将の名前。側近の彼が兄ならば、彼女は姉のような存在だったと彼は言う。ああそれが私と同じだからなんだというの?はそう言おうとするが口が動かない。なんてチープな作り話。心の中ではそう叫んでいるというのに。
伊達の左目はその人の面影を映して憧れを滲ませていた。その目の中に、すっと立つ女性の、凛とした後姿が見えた気がして、は首を振る。ばかばかしい。お伽噺に付き合うほど私はロマンチックでもなければ馬鹿でもない。はもう一度、頭をふった。違うと、嫌だと、そういう意味で。
姉と言いながら、あんたの目は違うことを物語っている。彼はその人を恋しているのだ。

「あんたに政宗って名前をつけたふざけたご両親を憎むわよ。頭大丈夫?」
「強情なヤツだな。頭が固いところまでそっくりそのままだぜ、。」
悪びれた様子もなく伊達は笑う。
ああ本当にこいつは頭がおかしいんだろうか?
が呆れて、額に手をやると、その仕草も似てんだよなあ、だなどとのんびりした声が聞こえてくる。
「ああはいはい。きっとあんたはその人に苦労かけまくったんでしょうよ。」
「否定はしねえな。」
ニヤリと笑う伊達に、にはその女の人の苦悩がとてもよくわかる気がしてしまった。

「って違う違う!」
が慌てて声を上げたので、伊達はきょとんと目を見開いている。
「どうした?」

「私は!そんな作り話に付き合ってる暇はないの!もうどっか行ってよ!付き纏わないで!」
「それはできねえ相談だ。」
「…しんどー…。」
本当に疲れた。この男との会話も、接触も、みな全てを根底から疲れさせ消耗させる。
「どうしたらお前は信じる?俺は伊達政宗だ。」
「だからねえ、」
もうちょっとうまいこと嘘はつきなさい。はそういうつもりで伊達を振り返った。


(あ、)
青い青い。しゃらりと帷子が鳴る。青い青い青い青い――
(え?)

一瞬。
一瞬光の反射のせいだろうか。伊達が青い影の中で輝くような群青色の鎧を纏っているように、見えた。額に大きな三日月の兜飾り。青い光を反射して、ギラリと光った。
「なんだ?」
「…い、や。なんでも、ない。」
不可解そうに首を傾げる伊達は、さっきまでと同じ、半そでの白いカッターシャツに学校指定の黒いズボン。学生かばんを肩に引っ掛けている。どこからどう見たって、学生だ。ただの。高校生。(ほんとうに?)は疑問を打ち消そうとぎゅっと手をにぎる。
見間違いだ。なにか。光の錯覚で幻を見たのだ。(だからってなんであんな?)
青い鎧の細部まで思い出せる自分が、にはひどく遠く思えた。

「なあ、そういう小説がよくあるだろう?主人公が違う世界や違う時空にいっちまう、そんな話だ。主人公は帰る方法を探しながら違うとこから来たってことが、ばれねえように暮らすんだ。You‐see?わき役は気づかねぇ。そいつが違う世界から来たってことに。」
。もう一度はっきりと、彼女の目を見てそう言った。
ゆっくりなにか押し殺すような、それでいてとても大事なことを、小さな声で叫ぶような、そんな真剣な調子で。
それだけでは、なにかもう竦んでしまって、ただ押し潰されそうな胸の圧迫感に立ち尽くすしかなかった。ああどうしてだってあんたの動作はいちいちひとつひとつ泣きたくなるほど優しいんだ。
伊達が呼ぶ。とそこに連なる誰かを呼ぶ。
それは、どうしてこんなにも、を悲しく、そして泣きたい気持ちにさせるのだろう。

。」

止めてくれ、私はあんたのじゃない。はそう叫びたかった。だのに声すら出ずに足は動かない。


「俺は、今から、お前を、舞台に引っ張りあげるぞ。」
なにか巨きな巨きな、伝説の生き物に見つめられるような、そんな気分がする。 は恐ろしかった。(あなたがおそろしい。そうだずっと前から。)気がついては愕然とする。知られないように、そう生きてきた。誰に?彼にだ。なぜ、どうして、(ああそれはいつから?)

「俺はあんたをわき役で終わらせたりなんてしない。」
俺が主人公だ、それならあんたを幸せなheroineにしてやれる、今度こそ。
伊達が泣きそうに必死に言うのだ。の両手を握る手のひらはひんやり冷たく大きい。
「…馬鹿なこと言わないで。」
「アァ?誰が馬鹿だ。」
「あんたよ。ふざけてる、そうじゃないなら、「狂ってる、か?」
crazy、そう言って今度こそ本当に、伊達は泣いてしまいそうに笑った。伏せた瞼の美しいことに、ははっとする。泣き出したいのを堪えてる、そうでないなら泣くことを知らないのだ。伊達は顔をついと上げるとやはりまっすぐその片目でを見るのだ。
「狂ってるんだ、。I came here to see you again,from 400years ago.」
伊達が言う。はその目を知っている気がする。
「なにを、」
「本当だ。」
「  、「本当だ。きっとそのためにここにいる。」
ああ馬鹿馬鹿しい。は目をぎゅっと瞑る。そんな甘言に酔うような、私は女の子ではない「だから、」の、 よ。「そばにいろ。」伊達がそう言って少し笑った。
(なにも隠さないで死なないで離れていかないでひとりにならないでひとりにしないで笑って泣いて怒ってなあほんとうに。)「頼む。」それだけ搾り出すように言い切るとの肩に顔を埋めた。(もう駄目だ、見つかった、捕まった。逃れることはできない。)だれかが頭の隅で呻く。はうごくことができない。伊達は顔を上げないぐいぐい肩に顔を押し付けて、の背中に縋るように手を回す。
「伊達、」
「政宗だ。」
ふいに伊達が顔を上げる。
「俺は政宗だ、。」
ああ。青い青いその人を彼女は知らない。見知らぬ訪問者、あんたは誰だ?あんたは、あんたは。
(どうか頼むから、その泣き出しそうな目を止めてはくれまいか。)


 




































*
見事な庭に面した、長い渡り廊下をぱたぱたと軽い足音が響く。
!」
呼ぶ声にギクリと、一瞬誰にも気づかれないように一瞬、肩を震わせて、それから呼ばれた女性は振り返った。腰までもある長い髪。群青と言うには淡い、浅葱色の鏡帷子がガシャリと鳴った。武人らしくまっすぐに伸びた背筋と、女性らしい線の細い華奢な背中は、逆説的でありながらしっかりとそこに確立されている。うっすらと微笑む口端が美しい。
「どうかなさりましたか梵天丸さま。」
女性は微笑んだまま膝を着く。そこに小さく駆けながら、まだ幼い、片方の目を包帯で覆った子供がやってくる。
を見かけたからな。いつ帰ったんだ?」
「つい先ほどにござります。今しがた殿にそのご挨拶を。」
「なんでわたしのところに最初にこねえんだ!」
ちぐはぐなそのしゃべり方に、梵天丸さま、と女性が秀麗な眉を潜めた。
「…どこでそのような言葉遣いをお覚えになられたのです?」
「小十郎が使ってる!クールだろ!」
「…くーる、とは?」
「異国の言葉だ!おもしろいだろう!」
ああ小十郎め、と彼女は小さく呻いて額を覆うと、いいですか、と顔を上げた。カチリと子供は目がかち合って、少し照れくさそうに女性の肩の向こう辺りにうろうろと視線をさ迷わせた。
「梵天丸さまは、いずれこの城の主になられるお方なのですからそのような粗雑な話し方をなさってはなりません。奥州筆頭となられるような立派な殿方がそのような言葉遣いでは公の場で馬鹿にされまする故。」
「…今は公の場じゃねえんだからいいじゃねーか。ケチくせえなぁ。」
「な・り・ま・せ・ん!日ごろの行いというものは無意識に表れるものなのですよ?」
「…はうるせえ。」
「はい、はうるそうございます。僭越ながら言わせて頂きますが、」
「げえー!」
そう言って子供は来た方向を引き返し始めた。
「梵天丸さま!」
まだお話は終わってはおりませんよ!と女性が膝をついたまま声を上げる。
「そもそも何故斯様なところにいらっしゃるのです!今は写経のお時間でございましょう!」
今はきゅうけいちゅうなんだよ!と廊下を曲がった向こうから律儀に返事が返ってきて、小さな足跡はパタパタと遠ざかって聞こえなくなった。
女性は表情を消すと、すっと立ち上がる。
はたり、と廊下に赤が落ちた。
「ぐ、。」
白い顔をして、女性がよろめき、柱にもたれかかる。顔にかかる細い黒髪がなんとも。美しい。
はあ、と耐えるように息を吐き出した所でぬっと女性の前に影が落ちた。
「おい。」
「…なんだ、小十郎か。」
色のない冷淡とも取れる瞳が、現れたまだ若い青年を見上げる。それを見返す男の瞳も、厳しくそして冷徹にすら見えた。辺りにしんと冷たく張り詰めた空気が満ちる。しかし良く見ればすぐ分かる、男の目には気遣わしげな表情が浮かんでいること。女のほうにも、後ろめたそうな反省があること。
自嘲的に歪んだその口端と、わき腹を押さえるその白く細い手を交互に見やって、男は不機嫌そうに唸った。
「…怪我してるんなら早くそう言わねえか。」
「は、怪我のうちにも入るまい。なに、少し掠っただけだ。」
よくいう、と男は舌打ちをして、女性の腕をぐいと掴み上げると立ち上がらせる。こんなにも軽く細い腕が戦場で振るわれるのだ。奇妙な感覚がした。
「有難う。」
「…無茶も大概にしねえか。」
梵天丸さまに心配をかけてどうする。その言葉に女性が、は、と笑う。酷く乾いた冷笑だった。
「気づかれないよううまくやればいい。実際今だって私はうまくやったでしょう?」
ああそうかもな、男は半ば投げやりに返事を返す。
「お前はいつだってうまく隠す。」
それにやはり女性は薄く微笑む。
「そうとも。誰も私が死んだことに気づかぬくらいうまくやってやるよ。」
にこりとわらうと女性はしっかりとした足取りで歩き出した。
途中擦れ違った女中に、「すまない、廊下を汚してしまった。掃除を頼めるか。」と微笑みつきで言葉をかけてそのまま庭の向こうへ曲がって見えなくなった。
少量とはいえない血痕の隣に立ったまま、男は女性の消えた方の廊下の先を見つめている。
だから知らない。
その反対側の廊下の曲がったところに、子供が背中を壁にくっつけて酷く必死な顔で拳を握り、じっと立っているなんてこと。誰も知らない。

(梵天丸さまがご立派になられたら、)
(あなたが嫌いですあなたが大嫌いです。)曲がった先ゆるゆると苦しげに膝をついて、それでいて彼女はゆるりと微笑む。まだ死ぬわけにはいかない。噫むしろこんな生半な傷で死ねるはずもない。(せめて消えよう誰にも知られないように。)彼女は微笑む。痛みすら抱きしめるように目を細めて。
(ああ私はあなたをとてもとても、)


***

見つけたもうなうごけなくなるから。