00.炎の翅をもらう話

    娘。娘、私の娘。
 もう随分ながいこと、娘は自分の名前を"娘"だと思っていた。そうとしか呼ばれたことがなかったから。母親はいつも、彼女をそう呼んだ。
 鋭い嘴の先で決して傷つけたりなどしないように、他の兄弟を毛繕いしてやるときよりももっとずっと優しく、母親はその娘を扱った。彼女は母親が好きだったし、母親も同じだったろうと思う。自分の生んだ卵から生まれた仔ではなかったけれど、いとおしんで育んだ。彼女は自分が、風変わりなことは理解していたけれど、それでも兄たちより器用な手足で母を手伝い、弟妹の世話をした。
    娘、私の娘。醜いかわいい私の娘。
 眠る前に星空の下、母親の喉がそういった意味の響きでなるのを、柔らかい羽毛に埋もれながらうっとりと彼女は聞いて育った。確かに彼女は、滑稽だった。ひょろりと手足は長いし、嘴もなく顔の凹凸がないにも等しい。身体にふわふわした毛も生やしておらず、飛ぶための羽も持たない。おまけにいつまで経っても非力で小さなままで。
    けれどね、娘。お前がかわいいよ。
 母親が、兄弟が、そう言うから彼女はしあわせだ。飛べない彼女を乗せて、兄弟たちは力強い翼で空を飛んだし、その分彼らの入れないような狭いところに彼女は降りた。彼女の目は夜でもよく見えたから、暗い中飛ぶときは必ず誰もが娘を背に乗せたがった。娘は季節が十三巡りしてもまだ巣にいた。大抵の雛は五巡りもすれば巣立って行ったけれど、いつまで経っても彼女に羽は生じなかったのだ。母親はもちろんその理由を知ってはいたけれどなにも言わなかった。
    焦ることはない、娘。いつかお前にも羽が生えるから。
 母親の言葉を疑うはずがなかった。娘は巣にいる間ずっと弟たちの世話をしたし、子育ての時期以外は大抵兄弟たちとあちこちを飛び回った。
 娘の特技はもう一つあった。歌うことだ。どうやっても兄弟母親に出せない音を、娘の喉は出した。それは彼らと会話するときに使う喉の奥を低く振動させるやり方とも、危険を知らせたり合図するために鼻の奥をキンとさせて発する高い音とも違う、不思議な音だった。兄弟たちは暇を見ては娘に"歌"をせがんだ。巣の縁に他の兄弟が誰もできない座り方をしながら、娘は歌った。母親はいつも、それを目を細めて聞いている。

 しかしある日、或る昼間だ、彼らの住む断崖絶壁を軽々乗り越えて、奇妙な生き物がやってきた。ますます奇妙なことに、その生き物は娘にそっくりな小さくひょろ長い不恰好をしていたのである。
「――――――、。――――――?――――!」
 その生物が何を言わんとその音を出しているのか娘にはわからず、顔をしかめた。唯一つ、なんとなくひっかかる音が合った。胸の辺りを擦っていくような変な響きの言葉だ。しかしその違和感も娘はすぐに忘れた。だってなんともうるさい客がいたものだ。それは早々のうちに娘に向かって音を立てるのを諦め、母親に向かって今度は音をたてる。弟たちは娘とその生き物の類似に目を丸くしていたけれど、娘は自分の姿を見たことがないからわからない。母親と、もう随分成長した兄たちばかり、困ったように喉の奥を震わせて娘に聞こえないよう会話した。
    ついに、
    きたのだ、
    おお、         娘。  私の        、
 不安げに見上げた娘を余所に、母親はその奇妙な客をじっとその燃える炎の色に縁取られた金の目玉で見下ろして、娘が今まで聞いた事のない音を発した。それはやはり、その生物が最初に発した音によく似ていた。一番年長の兄が、同じ響きで時折嘴を挟むのに、娘と弟妹たちは目を丸くするばかりだ。他の兄たちもやはり、その音を発せずとも理解しているらしく、神妙に黙っている。
『―――――――――。』
「――――――?」
『――――――。』
『――――――――――――、――――――。』
「…――――――。」
 たっぷり長い沈黙があって、母親と兄たち、そして奇妙な生き物が揃って娘を見た。娘は言い知れない不安を感じて、同じときに生まれて育った双子のような兄の翼の下に、隠れるように埋もれる。
      娘。
 母親が呼んだ。随分しんみりとして寂しい響きだった。
 奇妙な生き物が、拙い響きで喉を鳴らす。
  娘さん、あなたを さがす  いた、私 ずっと。」
 娘はぜったいに、この優しい兄弟の羽の下から出て行かないぞとますます身を寄せた。それに答えるように、兄が翼を包むように彼女に寄せ、心配はいらないよ、と耳元で喉を鳴らす。お前は僕が守ってあげる。かわいい妹。かわいい、かわいい。
 母親はもう随分前からそのかわいい、にいとおしむ響きが混じっているのを知っていたから、その奇妙な生き物を見つめた。それもその響きの特別に気づいたらしく、その凹凸の少ない顔をくしゃりと歪める。
。」
 あの音だ。娘がはっと顔を上げる。
。」
 打たれたようにやわらかい羽から顔を上げた娘の心細さをいっぱいに満たした顔に、一番上の兄の嘴が降った。
    お前の名だそうだよ。
 名。
 初めて聞いた"名"という概念とという響きに、娘は呆然と、その奇妙な生き物を見つめる。


    娘。娘、私の娘。
 もう随分ながいこと、彼女は自分の名前を"娘"だと思っていた。そうとしか呼ばれたことがなかったから。母親はいつも、彼女をそう呼んだ。
 今でも娘はその優しい響きを、時折懐かしんでは自ら喉を鳴らしてみる。そうして寂しい朝に窓を開けて風に吹かれては、優しい兄弟と母親のことをこの上なくいとおしい気持ちで思う。背中のやわらかい炎の色をした羽を、長い赤髪と一緒に風に靡かせて、胸の前で祈るように手を握るのだ。私の娘。
 娘はもう、この夏十八になる。

(20090517)