03.泰山よりの使者

「今言葉を話しただろう。」
 娘の言う言葉の意味が、よくわからない。気狂いの類であろうか。カクリと首を傾げた光秀に、彼女がなお問う。
「…違うのか?」
 少し残念そうな呟き。まっさおな目の中には、正気のひかりがある。
 しかしそんなものには目もくれず、すぐに光秀は、その娘の発声の仕方の妙に気づいて眉を顰めた。頭の中に直接届くような声。聞こえてくる音と、娘の口との動きが合わない。
 これはいったいどういうことだろう。
 城主の留守にのんびり好き勝手できると思った矢先に、騒々しい小姓の喚き声。あれでは尾張の果てまで聞こえる。やてやれと面倒くさそうに光秀が見やった先で、濃が、うるわしい顔を少しばかりしかめて首を振る。
 拷問でもなんでもすればいいのに。娘に一度目を戻し、再び濃を今度はそう呆れて見下ろしながらも、彼はなにも言わなかった。彼女の夫がおらぬ時、城内の悲鳴や呻きがわずか小さくなるのを、知っていたからだ。

「…何者です。」
 ため息と共に問いを発した。娘は光秀をなおもまじまじ見つめながら、ぐりんと大きな目玉で首を傾け、

『名乗る時はそちらから名乗るのが礼というもの。』

 まったく自らの状況を判断できぬらしいその哀れな赤い頭を冷たく見下ろして、光秀は歌うような調子でゆったりと腰を折った。
「…それはそれは。」
 サラサラと銀の髪がこぼれ、暗闇に光の糸をひく。白すぎる痩せた頬や、その目の周りの隈や、胡乱で人でなしの目玉やらを差し引いても、この男は十二分に美しく、優雅だったのである。
「大変な失礼をいたしました。私は明智城が城主、明智光秀と申します。」
 以後お見知り置きを。
 よろしくする気もない礼だ。しかし、
だ。』
 あっさり娘は名乗った。縛られているから礼はできないと首だけ前に倒した。

『なに、大人げないことを言ってすまなかったな。最初から名乗ればよかったのだが、そこな娘が"げせん"の者には名乗れぬなどとひどいことを言うから。』
 腕が使えず、娘は濃を顎で指した。まるで年下の少女の、無知をとがめるような口調だ。それに今度こそ光秀は、濃が顔を朱に染めて怒りだすよりも早く冷笑した。その冷たさは思わず、いかりかけた濃がその怒りを納めてしまうほどである。
「ではあなたはさぞや高貴なご身分なのでしょうねぇ?」
 赤い髪は伸び放題で、腰まで覆っている。服装は見なれぬ大陸風のものだが、質素なものに見える―――というよりぼろといったほうがふさわしい。痩せぎすの手足。もちろん皮肉で、彼は言ったのである。その佇まいが少しばかり典雅なことは見ないようにして。
 娘はその皮肉をも解せぬと見えて、きょとりと首を傾げるばかりだ。

『"こうき"?まだこの国の言葉は理解しきらん。こうきが何かは知らないが、私はこうきなどではないし、いいか、決して"げ"せんなどではない。私は"ち"せん だ。』

 何かが食い違っている。
 光秀は初めて、侮蔑も冷笑も含まず娘を見た。まっすぐに背筋を伸ばして座っている。背中に羽を生やした奇妙極まりない娘。
「………彼女は下賤、と言ったのです…。下々の賤しい者と言ったのですよ。」
 その言葉に、娘が合点が言ったのが声をたてて笑った。明るい声様で、しかしどこか、獣じみてもいた。

『ではなお違う。私は"地 仙"。地仙だ。遥か雲の上、泰山の峰に遊ぶ者。人の世の理のそとにある。』

 それはあまりにも悠然とした物言いで、一瞬辺りがしんとなる。この娘、本気なのだ。それほど声に揺るぎなく、正気の響きをしていた。
『なんだ、倭国の人間は仙も知らないのか。』
 その静寂をどう解釈したのか、娘がふんと鼻を鳴らす。
 虚言であるのか狂言であるのか――真実か。
 光秀が一瞬その正気を理解せずにはいられぬような雰囲気を、娘は持っていた。

「仙人!?お前が!?」
 光秀の濃姫の、娘を値踏みする沈黙を、無邪気に蘭丸が遮った。
「ばあーっか!つくならもうちょっとマシな嘘つけよな!仙人っていったらお前、ヒゲがこーんなジジイで真っ白でこーんな!」
 手振り身振りをつけて、蘭丸が笑いだす。娘の言葉を、ひとかけらだって信じてはいないのだ。彼は基本的に主君以外の誰に対しても、馬鹿にしきっている。光秀と同じように、それに娘が、白けた目を向けた。
 背中の翼が一度羽ばたく。
 ―――うごいた。
 そのことに三人は、動きを止めた。鳥が飛び立つ直前に、何度か翼を打ち合わせるように、その両の翼が、羽ばたいている。力強く、空を圧す音。飾りではない―――あの羽は血が通っている。
 羽の力だけで、両腕を縛りあげられたまま、娘が浮遊した。

『―――"げせん"なものの相手は疲れる。』
 その目の真っ青。それは内から発光するように、青い、青い。
 射すくめられて、蘭丸がヒッと息を詰める。
「蘭丸くん!?」
「のう、ひ…!」
 息ができぬのだ。その手が首へ伸びる。どうして機能しないのだと、縋るように。濃姫の腕に転がるように倒れこんで、蘭丸は声にならない悲鳴をあげた。
『この城はししゃの声であふれていてうるさい―――頭が割れそうだ、』
 独り言。
 娘はブツブツと、なにか呟く。口の端から泡を吹きそうにもがく蘭丸など、もはや目に入っていないに違いない。
 この娘がやっているのか。
 光秀は喉を押さえて呻く蘭丸を見、一瞬、ゾクリと血が泡立つのを感じる。

『かえる。』

 そうつぶやいた直後、娘はガクリと瞳を閉じた。羽が動きを止める。蘭丸が大きく咳をした。
 ―――落ちる。
 思う間もなくベシャリと娘が地に落ちた。呼吸を取り戻した蘭丸が咳き込み続けている。いたたまれないような沈黙だけ、その場に残った。
 


(20100904)