04.鳥の咽喉笛。 |
―――眩しい。 娘が眉をしかめながら目を開いた。ちょうど目の上に、光が斜めに落ちていた。 身体を起こすと、見なれぬ部屋の中。黒と白のひかりと影の格子模様が、白い布団の上に伸びている。 はて。 『…はて。』 ここはどこか。カクリと首を傾げた娘に、声が振った。 「やっとお目覚めですか。」 気がつかなかった。 部屋の片隅の黒い影の中に、男が胡坐をかいて座り込んでいた。その腕に死神の腕でも扱いきらぬような、人の背丈の優に二倍はある大鎌を抱えている。長く大きな刃は磨き抜かれ、夜空に冴え冴えと輝く月のように、青白く、残忍な光を湛えていた。物騒なものを持っているな、と娘は思った。思っただけでなにも言わず、ただ男の名前を思い出す。 『みつひで。』 やあ、と友人に挨拶するような調子だった。それに男は、不愉快そうに眉をしかめる。先ほどから、どうもこの娘は、自分の置かれている状況を把握できない気が強い。まるで自分が傷つけられることなど決してないと断言せんばかりの無防備さだ。 今も娘は寝かされた布団から立ちあがって逃げることもせず、のんびり室内の様子をただ確認するように、ぐるりと視線を廻らせる。 『ここはさきほどの城とはちがうのだな。…整理のゆきとどいた死の匂いだ。』 なにをのんきな。 獣のように、小さく鼻を鳴らした娘に、男の顔は呆れ果てて音もなくそう言った。それすらも理解できないように、娘は首を傾げる。 ―――噫これはただの阿呆だ。 男の表情に、かすかな嘲りが加わる。しゅらんしゅるらんと、軽やかな音を立てて、その大鎌が動いた。細い娘の喉元に、その切っ先がかかる。少しでも男がその腕を引けば、娘の首はたやすく落ちるだろう。椿の花を散らすより、お手軽な動作だ。 『ぶっそうだなあ。』 「質問にお答えなさい。あれはあなたの仕業ですか。」 『あれ?』 娘のやわい首筋の肌に、鎌の先の先が触れた。ぷくりと赤い、血の滴がふくらみ、白い肌を流れ落ちる。不思議と光秀は、それを無感動に眺めた。いいや、いつだって本当はそうなのだ。何ものにも動かされることも、心躍ることもない。退屈。退屈している。彼はうつくしい人の形をした血の通わぬ退屈な石だ。退屈はいつでも人を殺し、しかし心身ともに頑丈である光秀はそれにあやめられることはない。なので代わりに、彼は他者を屠ることでその暇を埋める。彼に取ってそれは、読書に勤しんだり造園に凝ったりまつりごとに集中するのと同じことだった。 「倒れる前にあなたのしたことですよ。」 『…小童の息を詰めたこと?』 「そうです。」 『私がやった。』 娘の返事は、あっさりはっきりきっぱりしていた。 『不可抗力だ、頭にくるとやってしまう…。人相手に怒ったのは初めてだから、あんなことになったのだな。師や他の仙なら、たやすくいなすものを。…大事はないか?』 ほんの少し、とがめられた子供があするような、すまなそうな響きがあった。それは彼にも少し意外で、「…無事ですよ。」と思わず普通に返事を返した。それに娘はほっと息を吐いてすこし微笑む。 『そうか。ならよかった。』 青い目が光秀の目を見る。それはなんの含みもなく、やはりただまっすぐだ。 『まだなにかあるのか?』 鎌が目に入らぬような、入っているとしてもそのことになんの恐怖も覚えていないかのような、瞳の力だった。 図太いのかただの馬鹿なのかどちらだろうか。 真っ青な眼差しだけ見れば、ともすれば聡明そうにも思え、しかし実際目の前の娘の行動は愚者に他ならない。 「自分のおかれている状況がわかっているのですか?」 『?力を使った後はいつも気が乱れる…寝かせてくれたのか、感謝する。』 「……あなたは掴まったのです。」 『そうか。』 にこりと娘が笑う。やはりまったく状況がわかっていないのだ。 魔王と恐れられる織田信長の城に空中から忍びこんだ(本人は落ちただけだと主張する)ところを捕えられたにも関わらず、殺されも嬲られも痛めつけられもせず、布団の上で五体満足に目を覚ましたことの奇跡のような幸せに気付きもしない。あげく今こうして死神すらも裸足で逃げ出す大鎌を喉元に突きつけられ、微量ながらに血を流しながら、能天気に笑う始末。 これは阿呆だ。 彼は確信する。 小姓の首を触れずに絞めた、その力こそ不思議だった。殺すにはその力が何か分かってからでも遅くないと思った。使える。見た目はただの無力な(いささか風変わりな体ではあるが)娘であるのに、手も触れず他者を害することができるとなれば。しかし本当に不思議の力を使うのなら、城内にそのまま置いて濃姫になにかあってはならぬ。気を利かせて城まで連れ帰った男だったが、拷問は趣味ではない上に彼の城には牢がない。おまけに当の本人は、のんきな顔で健やかな眠りを貪っている始末。 それがとても腹立たしくて、男はうっかり、鎌を持つ手を引いてその首を落としそうになった。 しかし彼の習性として、ひとつに知識欲の強いことがある。 暇を慰めるために重ねた読書や古書の研究は、いつの間にか光秀に"わからぬこと"を"不快"に感じさせる。知らぬことがあるのは気に食わない。たとえそれが冥府の窯の底であれ、覗いてみたいとそう思う。 「…鳥とはなんです。」 ……お前鳥なのか? その問いを発した娘の目は、確かに正気であったのだ。 光秀の口から出た言葉に、娘はしばらく考えるようなそぶりを見せ、それから、ああ、と頷いた。鎌の切っ先が細かく皮膚を裂くが、裂けてからそのことに気付いたらしい。娘はしまったと眉をしかめ、しかし次の瞬間にはその痛みすら忘れたように話しだした。 『お前の笑い方がな、少し、鳥の使う言語に似ていた。』 狂人の相手は疲れる。 彼はそう思った。普段人からそう噂される彼ではあるが、血に愉悦を覚えているような、快楽殺人者のような振舞い意外は、いたって優秀で有能な城主なのである。もちろん彼は狂ってもおらず、冷酷なほどに冷静であった。愉悦も快楽も、この世に見出したことはない。 「鳥が言葉を話すと?」 『ああ。人が言葉を話すように、鳥も話す。別段お前のことを鳥頭だとか、馬鹿にして言ったわけではない。そもそも人間は人を馬鹿にするときに鳥頭なんて言い方をするが、鳥ほど賢い獣もないぞ。なにせ彼らは、世界中の風と空気の流れの地図を、その血に記憶しているのだから。三歩歩いて今までしていたことをたとえわすれても、大したことではないだろう?どうでもいいことは、覚えていても仕方がない。空の飛び方と風の捕まえ方、飛翔の方法さえ知っていれば、ほかになにが必要だ?それ以上の英知が、どこにあるのだ?』 けれども確かに娘の口から出る言葉は、どこか賢者のようでもあった。 「…あなたにはそれがわかる、と?」 愚者であるのか賢者であるのか。それを問おうとした彼の明晰な頭脳が、シニカルなひとつの回答を口にして嘲るように笑い声をたてる。馬鹿な、愚者も賢者も押し並べてみればみなすべて愚劣よ。あなたも、わたしも、違いますか?仄暗い思考が、腹の底から浮かんでくる。 『わかる。私もまた、鳥だったからだ。』 その暗い連鎖を、ふいに娘のあっけらかんとした声が遮って鳴った。 「は?」 『私はかつて、みずからのことを鳥だと思っていた…もう二百年は昔のことだが。』 不思議な青い目は真剣だ。 赤い髪が、庭から吹き込んでくる風にゆっくりと、靡く。 |
(20110410) |