06.稀人、居座る。

 なにがどうしてそうなったのか、光秀自身さっぱり解せぬが、娘の首と胴体は離れることはなく、しかもまだ彼の城にいた。

 小虎なる下働きは確かに甲斐の忍び衆であったし、日当たりのよい光秀自身の執務室に移してやってからというもの "百" の囀る声はますます美しい。
 そしていつも主人の細やかだと思われがちな神経に触れぬよう、主人のいる間は息を潜めて暮らす清閑とした城の中、娘は騒々しい。城仕えの将も女中も文官も、みな娘の傍若無人な振る舞いにはびくびくしていた。いつそれが主の怒りの琴線に触れて、この美しい白鷺の城の中、殺戮が起こるかと慄いているのだ。
 しかし実際これまでに、光秀は戦以外で理由なく人を殺めたこともなければ、小間使いが皿を割ったからと言って首を飛ばしたりしたこともなく、悪戯に民の首を城門に並べたこともなかったし、城内が騒々しいからといって苛立ったこともない。彼はそもそも、周囲のことにはあまり頓着しない性質であったから、うるさければうるさいなと、静かなら静かだなと、いずれにせよ無感動かつ無関心にそう思うだけである。奇妙なことに古くから仕える者ですらそのことを知らぬので、彼は戦場以外でも、ほとんど大抵恐れられていた。

 自ら仙人を自称する娘がこの城に滞在を始めて、もう七日になる。
 紅い髪に、真っ青な目玉。燃える炎の色をした一対の翅。天狗じゃ鬼じゃと畏れられて、まずその娘は不愉快そうに、しごくその抗議がもっともであると言う風に唸った。
『仙と妖しの区別もつかぬようでは、日本の人間は見る目がなっていないのではないか?』
 やはり阿呆だと、光秀はもはや呆れながら、そのつむじを見下ろしていた。
 濃姫には今しばらく様子を見ると文を書いた。この数日で、荒唐無稽な話しばかり話す狂人じみた娘の言動の中にも、認めざるを得なかったことが幾つかある。
 やはりこの娘、鳥の言葉を解すのだ。
 何度か実験を試みて、そうと認めざるを得ない結果が出た。
 この能力は、有益であろうと思う。実際に娘は、間諜を屈託なく見出したのだ。自国の鳥だけでなく、他国の、敵国の鳥とも会話するなら、忍びは廃業せざるを得ない。よほど自らの国に忠義を立てる、殊勝な鳥が、いない限り。ちらりと光秀の脳裏に、どこかの兄貴の肩に止まったカラフルな鳥が思い浮かぶ。


『光秀、よく退屈しないな。』
 執務室に面した廊下に腰かけて、が声をかけた。
 先ほどからずっと、廊下から庭へ足を投げ出して、娘は暇を玩んでいる。光秀のように暇を潰す書類も執務もない。おまけに一応、虜囚の身であるので、彼女は律儀にまだ退屈に負けそうになりながらも城にいた。「あなた翅があるなら飛んで逃げればいいでしょう。」と一度呆れて光秀が思わず言うと、『逃げていいのか。』とあっさり娘は目を見開いた。駄目だと返すとほらなと言う。できるけどやらない、ということらしい。やはり阿呆であると思う。

『ここは整理された死の匂いしかしない…枯れ山水なんぞ掛け軸見ているようで退屈だ。長江の流れの壮大さを見ればこんな小さな庭いじる気も失せるぞ。』
 自慢の庭であるから彼はそのような非難を無視する。この造形美がわからぬようでは、仙などというのも大したものではない。
 返事のないことに退屈そうに、が咽喉を鳴らす。応えて文鳥が、歌うように囀った。チロリと光秀が視線を向けると、ぴたりと鳴き止む。
『自分のペットにも怖がられて。難儀な男だなあ。』
「…ぺっととはなんです。」
『愛玩動物のことだ。いかんなあ、確かに日本は島国だから外の国のことは遠いことかもしれぬが、世界はワールドワイドでグローバルな国際化社会なんだぞ?英語くらい話せんでどうすると、師が言っていた。』
 得意げに胸を張られたところで、三分の二くらいしか何を言っているかわからない。こうやって時々娘は、なんとなく奥州の独眼竜を彷彿とさせて、腹立たしい。それ以上にこの娘、古今東西の知識に通じているものだから、困る。光秀は自分が知識に目がないことを自覚している。

『暇だなあ…お、あれが天狗か?…翅以外似ても似つかんじゃないか。ほんとうにお前の家来は失礼なやつだな。こんなかわいいお嬢さんを捕まえて天狗とは…。』
 塀の向こうに見える明後日の山を眺めながら、がぶつぶつと呟く。
 ああ、頭が痛い。
 すぐ隣に立てかけてある大鎌に、もうこの小一時間で何度目をやったかしれない。空は夕暮れで、赤く染まっている。
 それをたまに血のようだと称する人間がいるが、光秀にはその心持がよく理解できない。血とは黒いものだ。おそらくそう言う人間は、本当に人の体から迸って失われる、血液を見たことがないのだろう。
 この赤は血の赤とは似ても似つかない。まだ火事だと言うほうが真実味がある。

『…母の翅の色とおんなじ。』
 夕陽に頬を紅く染めて、がなんとなく呟く。
 光秀に聞かせるつもりのない、本当の独り言を放つ時、娘の声音はずっと静かに、年相応に響く。
 庭といい城といい、彼は情緒を解する人間であるので、思わず仕事の筆を止めて暮れゆく空を見た。あかい。やはりこれは、炎の色だとそう思う。

『光秀。見な、雁の群れが行く。』

 空を指差してがわらった。
 それをやはり、どこか無関心な目で眺めやりながら、しかしどこか呆れたように、光秀が言う。
「…いい加減その気持ちの悪い話し方をやめなさい。」
 予想外の言葉だったらしく、はきょとりと、件の獣じみた動作でカクリと首を傾げた。
『え?』
「どうやっているかは知りませんが不愉快です。自分の口で、お喋りなさい。」
 の声は、やはり口の動きと揃わず、直接脳内に響く。試しに明国の客人と引きあわせたら、スラスラと普通の喋り方で彼の国の言葉を喋った。やはりこの娘、明からきたことも確からしい。
『…だって。』
 光秀の言葉には、自称する二百十八という年齢が本当であるならば、許せないような気がするかわいらしい子供じみた仕草で唇を尖らせた。
「なんです。」
 こういう時光秀の喋り方は素っ気ないを通り越して冷たい。
『お前たちのしゃべり方がわからない。』
 呆れた。
 光秀は今日何度目か知れぬ、やはりこれは阿呆で以下略と考えながら言葉を口にした。彼にとってはそれは当たり前のことであったし、ほとんどの人間はそうだと思う。神通力など使える人間の方が、少ない通り越してほとんどいないのだ。
「……わからないなら練習すればいいでしょう。」
 しかしその言葉は、数少ない神通力を駆使する仙人には、思いもよらぬ言葉であったらしい。
『練習?』
 目をまん丸にして、が鸚鵡返しに呟く。
「そうです。」
『…二百年生きてて、練習か?』
「人生日々勉強ですよ。」
 うげぇと顔をしかめて娘が笑った。

『だが努力はする。』

 ああこれだからこれが嫌いだと、やはり無関心に光秀は思った。


(20110810)