07.暇を玩ぶ。。 |
なんとなくむかっ腹が立つことに、の頭の出来は本来悪くないらしかった。 「光秀、どうだ、あっているか?」 練習しろだなんて言ったこと、失敗しましたねと至極客観的に、光秀は後悔していた。触らぬ神に祟りなし、といてもいないように扱われている娘であるが、その辺りに当人が気がつくはずも、気づけるはずもない。小姓から女中、宿直の武士まで片っ端から捕まえては、“普通の”話し方の教えを乞うているのである。 『話し方を教えてくれ。』 そう声をかけられれば大抵の者は怪訝に眉を潜めた。どう考えても、娘は普通に話している。その声音が直接頭に叩き込まれているなどと、気がつくものはそも皆無だった。 背中に翅は生えているし、髪は赤いし目は碧い。おまけに主の不興を買わぬよう誰もが息を潜めて静かに静かに生活しているこの城で、騒々しく、文字通り"飛び回る"娘は関わりたくない人物第二位であるに違いない。その第一位が主君であるというのはいささか、いや、たいそうな問題であろうが当の本人が毛ほども気にしていないので仕方がない。 胡散臭そうに、また、迷惑そうに、手で払いのけられたり無視されたりわけのわからぬ言い訳を口にして逃げられ遠ざけられ鬱陶しがられても、娘は一向にめげなかった。誰かに教えを乞うことはどうやら期待できなさそうだと悟るなり、今度はその背中の"翅"を武器に城のあっちこっちを飛び回っては住人たちの話に聞き耳を立てているのである。 間諜と思われて仕方のない行為であるが、娘は好んで、台所の下働きの者たちの会話を聞いていた。それから優秀な城の草たちに、重要な話し合いの席においては追い払われれば素直に応じた。それどころか不思議なことに、草たちとの距離を娘は縮めたようであった。ないものとしてこの城で扱われている草―――忍たちと、正々堂々騒々しく、誰からも見られながら無視されている仙の娘とに、どこか似通ったところでもあったというのだろうか。最初重要な軍議の席に飛び込もうとしたときに投げつけられた暗器を手も触れず軽々叩き落として『そうか、ここは来てはならぬところだったか。すまんことをした。』などとあっけらかんと謝られて気が抜けたのだろうか。それとも人並みに話しかけられて心無い忍たちの心に情でも湧いたか―――とかく娘は、好んで草と混じった。鳥の言葉を教えてくれなどと、乞う者もいるようだ。確かに間諜の能力として、鳥語を解す、そのことは、有益として認められはした。が、しかしである。 こんなはずではなかったと胡乱な目玉で冷酷なことを考えながら、光秀は額に手をやる。 ついに娘は、"普通に"、おぼつかないながらもこの日ノ本の言葉を発するようになったのである。 問えば「聞いて」覚えたというのだからあきれていいのか感心していいのか迷った。迷った一拍後で、この不審者のために一拍でも時間を消費するのが勿体ないと思い至ってやめる。とかく彼はなにもかも一切合財が面倒くさい。 血に塗れ肉を屠り夥しい悲鳴と恐怖を奏でてもなお、彼はいつも、退屈している。狂喜の哄笑を上げて屍を積み上げてなお、それを俯瞰する無感動に無関心な自身を自覚していた。 だからこそ、ほんと言うと明智光秀はなぁんにもしたくなかった。なぁんにも見たくなかったし聞きたくなかった。息をするのも面倒くさいが、止めるのはもっと面倒くさい。いったいいつから“こう”なのか、もうすっかり思い出せずにいる。欲しいものは大昔あった気もするが、それももうない。思い出せない。無気力に生きている。生きているつもりもなく生きている。治水はほどよく難しく、ちょうどよい手慰みになった。枯れ山水も掛け軸も歌も、狂った死神の役も殺戮も、同じように彼の退屈を慰めた。 それだけのこと。 主君の城に落っこちた、怪しさ炸裂の自称・仙人を今もこうしてわざわざ生かして虜囚の身にして傍置いているのも、おそらく退屈がそうさせるのだ。 そう結論をつけて、彼は長い溜息を吐いた。 『む、光秀、お前、前々から思っていたが姿勢が悪いぞ。』 「…話し方が元に戻っていますが。」 「む!あかん!…おまえ、………いぬぜだぞ!」 「……猫背でしょう。」 それだ!と屈託なくが笑い、猫は猫、などとおかしなことをつぶやき始める。まおはねこ、ねえ。ふーんと書家机に肩肘を付きながら、物憂げに光秀は部屋の天井を胡乱な目玉で眺める。それを家臣たちは、見えぬ何かを見ているのか、それとも次の殺戮の算段でもつけているのかと恐ろしがるのだが、なんてことはない。前髪が長く伸びて鬱陶しい、くらいのことしか考えていないのだからしょうがない。ヴィジュアル面で大いに損をしているのだが、そのことを指摘できる人間は、生憎ともう二度とこの城に来たりなんてしないだろう。 もっとはきはきしゃべりなさい。おのこなのだからめそめそするのはおよしなさい。せすじをまるめてあるくものではありません。 噫口うるさい、過去からの木霊。 反対の手に持った筆をくるりと回転させて、なんとなく、先ほどまで書類を書いていた紙の端に“猫”と書く。 「光秀、なかなかいい字かくなぁ。」 ずいぶん上から、師が弟子にするように言われて、なんとなくむかっ腹が立つ。仮にも一国一城の主の御筆捌きである。その中でも明智と言えば、達筆も達筆の部類であるのに、この言い様だ。黙って筆を差し出すと、ニタ、と笑ってが筆を執った。 「ひさびさだ。」 「…どこで習ったんですか。」 「黄庭堅先生ンとこ。」 「……とっくにお亡くなりになっているはずでは?」 『仙籍に入っておられる。』 あ、そう。 なんとなく疲れて額に手をやった光秀の隣で、鳥の娘がケタケタ笑った。光秀、書、教えてやろうかとそう言って。 |
(20090517) |