08.虎の威を借るなんとやら


「なァんでお前まだ生きてんだよ!!!」
 けたたましい声が普段、本来なら静まり返ったお城に響いた。
 光秀の額にヒクリと青筋が走ったのを、偶然見とめてしまった小姓としてはたまらない。いや、この来客の時点で、主人の機嫌が急降下通り越して地面にめり込むのは目に見えていた。さらにその上、今この城には、
「なんだ、いつぞやの小童ではないか。」
 真っ赤な翅と髪を持つ、空気など読まない自称・仙人の空飛ぶ小娘が逗留、もとい拘留されていたのである。
 宋が誇る四大家のうちの一人、黄庭堅の直弟子から書が学べる、という本来ありえない特典に暇を持て余す光秀が悔しがりながらも飛びついた、結果、娘の言葉遣いはもうほとんど日常生活において差支えないレベルまで進歩していた。「相変わらず喧しいな。」すこしばかり、グレードアップ、していた、かもしれない。にこやかな笑顔で言い放たれて、見た目そのままのお子ちゃま、森蘭丸はキイイと悔しがって地団駄を踏む。

「おい光秀!なんでこいつ生きてんだよ!!」
 常のごとくの呼び捨て、およびタメ口には呆れてものも言えないが、黙っていると煩さが二乗されることなど百も承知、光秀はやれやれと口を開く。
「殺せとは言われておりませんので。」
「だったら牢に閉じ込めとくとか拷問するとか鎖で繋ぐとかいろいろあるだろ!」
「生憎こちらに牢はございませんので。」
 ケロリと答えると、ケッと顔を顰められる。
「ったくちょっと心配して様子を見に来てみたらこれだもんな!」
「ハア。」
 まったく面倒くさいったらない。どうせなにかお使いの途中で失敗をして、城に帰りづらい、そんなところだろうと見当をつけて、光秀はさっさと自分の仕事を再開することにした。信長公とその細君の周りで尻尾を振って可愛がられていればいいお気楽なお子様と違い、一国の主である彼には治めるべき領土が多くあり、幸いなことに暇ではないのだ。
 わざとらしくああいそがしいいそがしいと仕事を始めると、見るからに蘭丸がムッとする。
「そうやってすぅぐ仕事にかこつける!これだから大人は!」
「あア、すみませんね…お相手して差し上げられなくて…とっとと帰って帰蝶に遊んでもらいなさい。」
「濃姫様を気安く呼ぶな馬鹿―――――!!!!」
 噫、煩い。
 色濃く光秀の額に筋が浮く前に、娘のほうが興ざめしたように足を畳の上に放り投げた。正直な顔面にはありありと「不愉快」の色が浮かんでおり、噫このような狂人にもこの子供の煩わしさは共通であるのかと、光秀は素直に感心した。
「お前、何しにきたんだ。うるさいぞ。」
「あアー!?お前今口答えしたな!生意気だぞ!!」
「坊主こそ口を慎め、何様だ。お前はただの小姓だろう。」
「信 長 様 !の!小姓だ!!お前こそ何様のつもりだよ!」
「ならなおさらである。偉いのはその信長様とやらであって、お前はそのお小姓だろう。礼儀作法のなっていない小姓などを傍置いては主君の品格が疑われる。しかし、虎の威を借る鼠、とはお前のことだな。」
「…!!!〜〜〜!!!それを言うならキツネだろ!」
「なんだ、お前、自分が狐並の知恵者だとでも思っているのか。あとで稲荷に詣でて詫びておけよ。」
 ハハハと屈託なく串刺しである。
 屈辱だと感じたのか、下を向いて林檎の頬をぷるぷると震わせていた蘭丸であったが、次の瞬間ガバリと顔を上げる。

「わかったぞ!お前、光秀と通じて信長様を裏切る気だな!!」
 どうしてそうなるんだろう。
 心底うんざりした様子で、が光秀に目をやる。ここで私に振られても困るんですが、と目線だけで返すと、お前の客だろう、と言われた。
 招いた覚えのないものを、客と言われてもたまらない。このガキいっぺん本気でしめたろかと思ったことは今まで数えるのもばかばかしいほど常々のことであり、いっそしめ殺したらさぞ静かになるだろうと思う。けれどなかなか子のできない“濃姫様”が、弟か我が子でも見るようにかわいがっているのを知っているのでそうもいかない。
「だったらどうするんです?」
「あーーっ!!否定しないな!!!信長様と濃姫様に言いつけてやる!!」
 ほほう?と声低く、歌うように光秀が目線をちらりと横へ流した。
 それを受けて、ははぁ、とがしたり顔、笑みを浮かべる。
「知られたからには、生かして帰すわけにはいかないなぁ。」
 あっけらかんと、能天気な言い様で、しかし背中の羽が、バサリ、と不穏な感じに広がった。ビクリと後ずさる蘭丸に、畳み掛けるように光秀が近づくと、ぬらりとその白い指先を首にかけるような仕草をした。とっさに背中の矢をとって、蘭丸が勢い良く部屋の外へ飛び出す。
 猫やネズミがそうするように、毛を逆立て、息を荒げたまま、目をらんらんと光らせて、弓を構え、けれど冷や汗をかいて怯えているちいさなおのこ。
 しばらく不気味な沈黙が降りて、蘭丸の息遣いだけがうるさい。
「…ぷっ、」
「くく、クククク、」
 あーはっはっはっはっはっは、ぎゃーはっはっはっはともはや馬鹿笑いである。大の大人と自称仙人に指を指され腹を抱えて大笑いされて、やっと担がれたと気付いたらしい。蘭丸が首元からおでこの先まで一気にカーーッと赤くなる。
「赤くなった〜!!わ、私の髪より赤いんじゃないか!」
「け、傑作ですね、クク、フハ、ハーッハッハハ!」
 みっともない通り越して抱腹絶倒の大爆笑だ。顔を真っ赤にしたまま、涙を浮かべて震えながら蘭丸が弓を持って背を向けると、一目散に駆け出した。
「お前らなんか大っ嫌いだ――――!!!!」
「「ならよかった。」」
 返事は折りよく、ちょうどハモった。
「…!!大・大・大嫌いだ――――!!!!!!」
 あっという間に小さくなる背中に、二人の爆笑が覆いかぶさる。
「光秀!み、見たかあいつのあの顔!ぶふ!ぎゃーはははは!」
「た、たまりません、ねえ、不細工すぎて…!」
 しばらく誰も悪魔のような大爆笑が恐ろしすぎて、光秀の部屋に近寄れなかった。

 後日、濃姫様より、からかいが過ぎるとの書簡が届きましたそうですが、もちろん火にくべて焼いてしまいましたって。



(20130313)