三日間降り続いた雨がぴたりと止んで、カラリと気持ちのいい青空が広がったある日。 政宗は再び執務を抜け出して馬を駆っていた。 季節は再び、あの錦の広がるくれないの森へ向かおうとしている。まだ残る夏の名残の緑に目もくれず、彼は馬を走らせた。緩やかな坂を昇り、崖を下ればすぐそこだ。眼前に、あの湖が広がる。 いつも湖には気持ちの良い風が吹いていた。今思えばそれは、すべてこの湖に棲む存在のためだったのだろう。湖へ続く坂をゆっくりと下りながら、政宗は少しそんなことを考えた。 湖畔ぎりぎりまで来て、馬からひらりと降りると、政宗の足の下で、玉砂利がカラカラと鳴った。歩くのが楽しくなるようなきれいな音。馬の手綱を握ったまま、政宗は湖へ目を凝らす。もちろんのこと凪いだ水面には、なにも見当たらない。しかしもう政宗は、底になにがいるのか知っていた。大人しくしてろよ、と賢げな馬の目を一度覗き込んでから、彼は大きく息を吸った。 「よお、!いるかー!?」 彼の言葉の余韻が小さく木霊して、しばらくはなにも起きなかった。静かな水面を、僅かに風が、漣を立てるだけだ。 しかし政宗の声が、水面を滑ってしばらくすると、湖の中心にポコリと泡が浮かんだ。 細かな泡はやがてしだいに大きなものとなり、湖の表面全体を振るわせる。徐々に大きくなる振動で、すぐ水際に立った政宗の足元まで、波が被った。馬が驚いて頭をもたげるのを、政宗は静かに手綱を引いて収める。 湖はもはや、その何者かの目覚めに全体が波立っていた。地鳴りのような音に、遠くの山が揺れる。 やがてようやく、紺碧の湖に目を凝らした政宗の目に、魚影とは比べ物にもならない長く大きな影が映った。ゆったりとした動きで、水面に向かって上昇してくる。一瞬の静寂。 ゴボリと大きく波立った水面から垂直に、長い影が空へ飛び出した。悠々と天へ伸び上がったそれは宙でゆったりと旋回すると、しぶきで幾つもの小さな虹を作りながら、長い身をくねらせ、その巨大な頭を政宗のまん前に浮かべた。 気流に靡いて鬣髪が揺れる。水の中を泳ぐような動作で空を飛ぶその巨大な獣。樹齢三百を超すような大木ほどあろうかという胴体。そして金に縁取られた大きな丸い目玉。蛇に似た、しかし比べ物にはならない巨きな巨きな。 普通のものなら、恐ろしくって逃げ出しただろう。 彼の愛馬は、案の定おびえて前足を上げようとする。 しかし政宗が、その竜を恐ろしいと思うわけはなかった。だって知っている。その優雅な尾鰭が、満足そうに波打つのを、同じようにどこか、満足げな瞳で眺めてすらいた。それに竜の真っ青な目玉が、優しく彼を覗き込んでくる。 『政宗様、』 身内の底から、あるいはずっと遠くから響き渡る、その声だ。 「久しぶりだな、。」 やはりその目玉が馬に似ているものだから、彼は思わず自分の目の前に浮かんでいる鼻面を、愛馬にしてやるようにポンポンと叩いた。さすがに矜持の高い竜相手にそれはまずかったかともその後すぐに思ったが、不思議そうに笑いながら受け入れる竜を見る限りは大丈夫なようだ。 「…この間は助かった。礼を言う。」 それに竜はパチクリと目を見開くと、礼ならもう言っていただきました、と言って笑う。今度はこちらが首を傾げた政宗に、竜が笑う。さんきゅう、と言われたのをちゃんと聞きましたよ、と。 馬があんまり彼の隣で不安げにうろたえているものだから、彼は一度竜から目を離して、その彼に従順な白馬に向かってどう、どうと声をかけた。馬の賢そうな黒い瞳は、完璧にうろたえており、いくら戦場を共に駆けてきた歴戦の猛者とはいえ、この想定外の生物の登場には肝を潰したらしい。手綱を放せば、今にも駆けさってしまいそうな(実際以前は政宗を置いて駆けていってしまった)その馬を、彼はなんとかなだめようとする。 竜が背後で、『おびえさせてしまいましたね、』とすまなそうに呟いた。 「別にあんたのせいじゃねえ。おい飛影!いい加減、落ち着け!」 それにそんなこと言ってられるかとでも言うように馬は首を振り、政宗の手を振り払おうとする。 『お任せを。』 という声が聞こえたかと思うと。竜はその鼻先で馬にそっと触れた。最初馬は、驚きのあまり全身をビーンと張り詰めらせて硬直してしまったかのように思われた。しかしそれは、目を見れば違うとわかる。彼はきょとんとして、瞬きひとつしたかと思うと、竜が離れたときにはケロリと落ち着いていた。もう大丈夫、と微笑む竜に政宗はいぶかしげな目を向ける。 「あんた今度はどんな魔法を使ったんだ?」 その言葉に、竜はきょとりとして、それから笑った。 『いいえ、教えただけですよ。そなたを脅かすものではないのだと。』 元々馬は竜に近い生き物ですから意思の疎通は楽なのです。と政宗の想像の範疇を超えたことを竜は言ってふふと笑う。やはりその巨大すぎる図体に、女人のたおやかと形容するしかない控えめな笑い声は少しばかりアンバランスなようにも思えたが、それ以外の声もどうにも想像できず、こんなものなのかなと政宗は首を捻りながらも納得しようとした。 なにせ人ではなくて竜のことだから、常識などという尺度で考えていては頭が幾つあっても足りない。 「そんなもんか?」 それでもやっぱりよくわからなくて、そう訊ねる政宗に、竜はやはりおかしそうに、そんなものですと返した。 |
( 竜と馬のあいの子は麒麟。 |