訪ねた先が留守という事態は正直想定していなかった。 湖のほとりに、愛馬とひとり、ぽつねんと政宗は立っている。 普段であれば、一声かければ水面が震え、湖の底からゆったりと、巨きな竜が昇ってきたり、あるいは漣ひとつ立てず、水面に娘の姿をした竜が立ち現れたり、あるいは政宗が声をかける前から汀に佇んでいたりするものだ。 しかし今日は、呼べども待てども一向に現れる気配すらない。真っ青な湖はしんと静まり返っている。 「…留守か?」 少し水面を覗き込んで、呟いてみる。やはり返事はない。 竜にも竜の事情ってものがあるだろうし、いつもいつもいるとは限らないのは当たり前のことだろうに、なんとなく政宗はショックを受けていた。いつでもここに、いるものだと思っていた。 なんとなく手持ち無沙汰で、政宗はムンと伸びをする。 新鮮な空気をたっぷり肺に入れると、清々しい気分だ。いないものは仕方がない。せっかくだから久しぶりに、一人でのんびりするのも良いだろう。 玉砂利の上に腰を下ろし、政宗がもう一度、伸びをしようとした時だ。 ゴポリ、と水面が泡立った。 いつも竜が現れる時より、泡の位置が水面に近い。その音に目を丸くして、少し体を前へ起こした政宗の目の先で、静かだった水面が二カ所、並んでコポゴポと泡立つ。馬がヒンと高く鳴いた。いつも竜が現れる時の、迎えるような嘶き方とは少し違う。 「………」 岸部に近い水面に立っていたのは二人の女だった。 『様は今お留守にしておられます。』 『準備に手間取りまして、ご挨拶が遅れましたこと、どうぞ平にご容赦くださりませ。』 声がどこか遠くから、直接頭に届くように響いた。 深々と頭を下げて見せる二人は、やはり最初竜がそうであったように、大陸の官女のような服を着て、髪を高いところで結っている。どちらも女性としては油の乗った年頃で、側仕えの年増というより頼りがいのある姉やといった感じだ。瞳は黒々と楽しげに、政宗を見つめている。 しかしここ一連の出来事で、すっかり不思議に慣れ親しんでしまった政宗には、水面に女が二人顕れるくらいどうということはない。むしろ人の形をしているだけ親しみやすくていい、というくらいのものだ。きっともちろんこれらも人ではないのだろう。 「こっちが毎度勝手に来てんだ。にだって予定があんだろ、気にすんな。」 『いえいえ、そう言っていただけるとありがたいことです。』 『しかしさすがは政宗殿。堂々としておられる。』 『も少し派手に登場すればよかったかしら。』 おほほと口元に手をやって、女たちは顔を見合わせて笑う。 竜を初めて見たときのインパクトを思い出して、政宗は若干顔をひきつらせた。 「おいおい、…勘弁してくれ。」 あんな心臓に悪い驚きは、一度で十分だと思う。 『あらご冗談を。』 『政宗殿のお話はいつも様から聞き及んでおりますよ。』 『そうそう、お礼が遅くなりまして…此の度は、様をお救いいただきまして、誠に、』 『―――誠にありがとうございます。』 水面で三つ指ついて頭を下げられた日にはどうすればいいのだろう。日頃頭を下げられ慣れている政宗であるが、さすがに少しギョッとした。女たちの美しい着物の裾が、水面にふわりと広がっている。 「俺が好きでやったことだ。気にすんな…あー?」 『わたくしは様のお側仕えを務めさせていただいております、八馬女に御座います。』 『同じく、磐梛に御座いますれば。』 右の緑の衣が八馬女、左の紺の衣が磐梛というらしい。 『様は今朝早くに地下の水道を通ってそのまま外つ海に出られました。』 『今頃は泰山にお着きになった頃合いかと。』 『様も政宗様が二日と間を置かずに来られることはないだろうと、湖をあけられたのですが、まさか今日もお越しいただけるとは。』 『留守の間に来られたと知れば、様、きっと残念がりますわ。』 『 けれどこうしてお会いできてよろしゅうございました。』 『本当に!一度政宗殿には御礼を申し上げたく思っておりましたの。』 『まったくあの伽瑠羅と来たら。』 『竜族と伽瑠羅族の間には友好条約が布かれておりますというのに。』 「友好条約だァ?」 二人の会話は交互にポンポンとテンポよく、ともすれば口を挟む機会を失ったまま、延々聞くことになりそうなほどだ。顔を見ながら話していなければ、一人が喋っているかと思うほど継ぎ目が滑らかで小気味よい。 『ええ。竜族と言えば仙界ではけっこうな重役揃いでございましょう?』 『伽瑠羅族もまあまあそこそこそれなりの地位でございますから、会議の時など席を同じにする機会が多くて。』 『顔を付き合わせる機会が多い上に天敵となっては、会議が踊る一方でございますから。』 『天帝のお取り計らいで、竜族と伽瑠羅族の間には「食べない」「目の敵にしない」友好条約が結ばれておりますの。』 『そもそも伽瑠羅は竜を餌として好みますけれど、竜が主食というわけではございませんのよ。』 『そうそう、竜なんて食べるまでが死闘というか一苦労でございましょう?』 遭遇当初、かば焼き何人前だろうかと思ったことは生涯の秘密にしよう、と政宗はこっそり心のなかで誓う。 『条約が締結するまでは伽瑠羅共が集団で竜を狩るなどという非道を行っておりましたけれど、タイマンなら五分五分と言いますか、どちらかと言えばサイズ的にも力的にも竜に歩がありますから。』 『それで長らく、竜族と伽瑠羅族は一応は諍いなくやっておりましたの。』 『それをまあ、あの伽瑠羅め!うちの様に目をつけるなんて不届き千万ですわ!』 『鳥は鳥らしく、蚯蚓でもつついていれば良いのです。』 最後の巌那の言葉に、二人が『あらやだ!』と顔を見合わせて笑いだす。 なんというか、あのおっとりとした姫君に対して、ずいぶんと気勢のいい姉やたちである。思わず政宗が圧倒されて、聞き手一辺倒に回っている。この年頃の女性というのは、人間に限らずこういった類の話が好きらしい。 『そうそう!ああ、そうですわ、それで今日様は、その件でお父上と伽瑠羅族の長に事情を説明しに行かれましたの。』 「事情説明?なんだってあいつが、」 『ええ!そうでございましょう?!まったくあのバ伽瑠羅野郎が黒こげフライドチキンになったのには様に非はございませんというのに!立派な正当防衛というやつです!』 『なんでもあのバカ瑠羅野郎、ちょっといいとこの坊だったようで包帯 ぐるっぐるのミイラ姿でお母上に泣きついたようなんですのよ!まあまったくなんということ!』 『これこそ本当のチキン野郎よ!』 ひょっとして倒したのはまずかったろうか。 いまさらながらに少し眉を潜めて政宗に、あっけらかんと女たちが告げる。 『ああ、政宗殿は何も気になさらずとも良いのです。あちらに非があることは伽瑠羅の長殿とて百も承知しておられますから。』 『そうですわ。ですから事情説明というよりも、様は謝罪を受けに参られるのです。』 「謝罪…?」 『ええ!数千数百年に渡る友好関係を揺るがしかねない大事件ですもの!もうすぐ条約締結祝1800年祭も企画されておりましたのに!』 『これで様の御身に何かあったらそれこそ仙界大戦争でしたわよ!』 『本当に政宗殿のおかげで、これくらいの騒ぎで済んだのですわ。』 本当にありがたいこと、と思い出したように二人が畏まって再び頭を下げる。 「気にすんなっつったろう。」 『いいえ!うちの大事な姫様をお助けいただいたんですもの!』 「それならから礼はもうもらった。」 『雨でございますか?あんなのうちの様にかかれば朝飯前です、なにかもっとドカンとでかいことお頼みになってもよろしいのですよ!』 「そう言われてもな。」 誰かに縋って叶えてもらいたい願いが、彼にはない。自らの力で拓き、掴み取りたいものこそあれ、そういった類の願いを彼は持たなかった。以前の日照りなど、一生に一度あるかないかの事態だったろう。だからそこに、竜がいてくれたことは、彼に取ってまたとない幸運だった。 『あら、おほほ…欲のないこと。』 『素晴らしいことです。』 ようやく二人の姦しい口も収まったようで、政宗は少し、片方の眉を下げてとりあえず笑みの形を作った。 仙界の裏事情とやらをたっぷり聞いてしまった…どうやらけっこうな時間いたようだ。これ以上いたら、また二人のマシンガントークが始まりそうで、そろそろ行くかと腰を伸ばした政宗に、あらお引き留めしてしまって、と磐梛が頬に手をあてる。 『いけない、久しぶりのイケメンにテンションあがっちゃってついとんだ長話を。』 「…そりゃどうも。」 『年甲斐もなくお恥ずかしいですわ!おほほほ…。』 『また様のおられる時にでも、お立ち寄り下さいませ。』 『その時は菓子のひとつでも、ご用意させていただきますわ。』 「…ああ。によろしくな。」 『―――ええ!』 またいらして下さいませねと、笑う姉や二人に後ろ手に手を振る。 ポシャンと水音がして、振り返るとこれぞ主サイズ、大きな山女と岩魚が、二匹並んで湖の底へ潜っていくところだった。 |
(20110821) |