河童の娘が帰った後で、政宗はふむと胡座をかいて、目の前に置かれた箱を見下ろしていた。 立派な白木の箱は、青い綾紐で封じられ、ちょこんとそこにある。持てば霞でも閉じ込められているのかと疑うほどに軽く、振るとかすかにかさこそと音がする。なんだろうかと予想しようとして、無駄なことだろうと思い直す。なにせ竜のやることなど、人の身では想像もつかないのだから。最近彼は、自らが奥州の竜と呼ばれていることすら忘れがちだ。 右目は翡翠からちっともその主君の情報が得られなかったことに若干意気消沈している。休憩と称して畑の様子を見に行った。暫くは帰ってこないだろう。ちょうど部屋には政宗ひとりきり、箱を開けるなら今しかあるまい。そう思いながらも、なかなかふんぎりがつかない。 遣い文とは別に、箱に包まれていた本文の方の手紙をもう一度見下ろして、政宗は唸った。華やかで典雅な文字捌き。見事なまでの、仮名混じらない漢文。仄かに香が焚きしめられているらしく、ふわりとやわらかいかおりがする。紙も上質なもので、さらさらと絹のように軽い。いい趣味してやがるなぁと、思わず唸り声のひとつも出ようというものだ。 竜からの贈り物、もとい詫びの品―――。開けたら爺になるなんてことはあるまいが、開けるのに若干の緊張感が伴う。改めて彼は小さな箱とさしで向かい合い、うんと腕を組み直す。 しかしなんとも、霧か霞でも詰めたように軽い。かと言っていつまでもにらめっこをしているわけにもいくまい。 「…男は度胸。」 普段度胸の固まりでしかない行動しかない男が何を言うのか。変なところで常識を発揮する彼につっこむ人材はあいにくとここにはいない。 目の前に置いたままの箱の蓋を、えいや!と両手で開ける。 ぶわわ、と何か飛び出してきた。 箱は空っぽで、その白い底が見えている。しかしそこから確かに透明に透き通った、色のない水の流れが、勢い良く奔流の湧き出すように、飛び出してきたのである。色もなければ重みもない、しかし透けて見える水の流れ。思わず驚いて蓋を閉じようとした政宗の、力を遮って迸る。 「おいおいおいおい!」 部屋中水浸しにされてはたまらないと思わず小さな悲鳴をあげて、彼はふと気づく。ちっとも、まったく水をもろに浴びる彼の腕は濡れちゃいないのだ。 まぼろし。 呆気にとられる彼の目の前で、流れに乗って箱からは、桜の花が部屋いっぱいに溢れ出した。これもまた水晶でできたように透き通って、しかしその角はまろやかに柔らかい。留める間も術もなく、ついには子供がおもちゃの箱をひっくり返すように、部屋中一面春が溢れかえった。 ざわ、と桜の見事な枝ぶり。いつの間に樹まで飛び出てきたのだろう。 花は天井まで溢れて、あたたかい風。真っ白であったはずの襖には、ほのかに花色の、春の霞。 そのただなかに取り残されて、政宗はぽかんと呆けて透き通った花を見上げている。 ほとほと呆れて、ふと畳に落ちた手紙を拾い上げる。 "―――南の奥山へ逍遙いたしました際に、そちらにはもう佐保姫がおいでになっておられたので一足早い春の気をいただいて参りました。お仕事合間のせめてもの慰みになりましたら。" 「…っつわれても、」 辺り一面透明な春の景色。 笑い、さざめくような花といのちの気配。部屋いっぱいに政宗を取り囲んでいる。座り込んだ彼のおしりのあたりを浅くひたひたとひたして、雪解けの透明な水が流れてゆく。もちろんそれはそうと見えるだけで、実際冷たくもなければ着物を濡らすこともなかった。片手で掬いあげると、こぼれ落ちる傍からそれ自体が春の日差しのようにきらきらと瞬き、空気にほどけて霞になる。透明な桜もまた日光を集めて作られているのやら、内から光を投げかけてほのぼのとあたたかい。これは確かに、休憩にはもってこいどころか、炬燵に蜜柑並の禁断のアイテムではなかろうか。 「…あったけ…。」 っつわれても、のあとに言おうと思った宙ぶらりんな文句を忘れて、政宗はごろんと仰向けになった。ぱしゃりと幻の水が跳ねる。散った花びらがゆらゆらと目の横を流れてゆく。水晶の水に浸かりながら、知らず彼の口端が持ち上がった。 大の字になってそのまま深く呼吸すると、ああ、確かに春の匂いだ。雪深い奥州の地で、すべての民が待ち望むやわらかな春。 まったく竜のやることときたら予想の遙かに斜め上をいく。 遠くで鶯の声がした。ゆめうつつの頭には、それが幻かまことか、とんと判じかねる。 |
(20120402) |