「物の怪ですって?」
 先ほどまでの陽気な声音からは想像もつかない低い音声で、姐や二人は立ち上がった。やはりその動作は、合わせ鏡に写したように、左右ぴったりと同じである。 刀に怯えて見せたのは演技だったのか、どろどろどろ、とそれこそ遠くから雷鳴が聞こえてきそうな具合だ。ぴっちりと結われていた髪は解け、宙に浮かびあがっている。
 思わず歴戦の猛者である武士たちが揃いも揃って居並んで、しかしひるむほどの迫力だった。
 じり、とますます身を低くした小十郎が本気で斬りかかる構えを見せ、おいおい待て待て、とようやっと冷や汗をかき始めたお殿様にも、女怪二人は頓着しない。 子どもはお退き、と凛々しいお河童頭をひょいと脇へ追いやると、姫の両脇にすっくと背筋を伸ばした。おかげで政宗様が、磐那に見切れ気味であるがもちろんそんなことは 気にしない。
 気合いを入れたという女中二人の衣装の向こうに、やっと気を持ち直して同じく戦いの構えを見せる従兄弟と老家臣二人を見え、ますますなんだかまずそうな展開、では あるが先ほどから口を挟んでは失敗している奥州独眼竜はいったいどうすればいいのか。
「なんと無礼な!この方を東海青竜王様の御息女と知らぬこととて許せることではござりませぬ!」
 などと思っている間に、八馬女の朗々とよく響く声が、まるで城中聞こえたんじゃないかしらというくらいの大音量で発された。
「八部の中でも最も上位な竜族をもって物の怪とは!」
「東海域を統べる青竜王様が掌中の玉と可愛がっておられるこの姫様を!」
「そなた神職であろう!溢れ出るこの神気をもってして物の怪!なにも分からぬとは恥ずかしくはないのか!」
 水戸黄門みてぇ。というにはいかんせん時代が足りなかった。なので水戸のご老公が誕生するよりも一世紀以上前の人、伊達政宗様はぽかんと呆れて八馬女と磐那が大見得を切る のを見つめるしかなかった。
「このお方をどなたと心得るのです!畏れ多くもをこの地球の海四分の一を統べる東海青龍王様の御息女、様であらせられるのですよ!!」
 へーお前すごかったんだなぁ、と耳打ちすると、わたくしではありません父上のご威光ですとなんとも謙虚でのほほんとしたお返事が返ってきた。
「政宗様様シッ!」
「今怒ってんですから黙ってて下さい!」
 振り返った姐や二人が般若の剣幕なので、殿と姫はじっと黙る。こわい。
 しかしながらこっちの兄や…と言っていいのか、右目も負けず劣らず怖かった。眼光は戦場と同じに鋭く、この場での一族郎党皆斬って捨てるのになんの躊躇いもない目である。その背中にしっかり構えて並んだ御家来衆を従え、うーん、まさに戦模様。「どうしたもんか。」と思わず 唸ったお殿様に、姫君がすまなそうに首を傾げた。
「お騒がせしてしまって…、」
「いや、なに。事前説明が足りなかった俺にも責はある。Don't worry.」
 ポン、と姫君の頭に手なぞ乗せて、姫君のほうは、どんうぉーり、は気にするな、の意味。なんて教わった異国語の意味を頭の中で思い返したりなんかしているので、周囲の修羅場 さえ見えなければやっぱりなかなかいい感じ、ではあるのだが。そんなことはもちろん言っていられない。
 そろそろどうにかするかと腰を上げかけた政宗を制して、がそっと首を振る。そのまま流れるような美しい所作で、修羅場の一同を振り返り、うるわしい喉をひと震わせ。

「お下がりなさい。」

 ゆったりとして、静かな声音であったのに、まるで鬨のように響き渡った。もうその髪も肌も目も光り輝くのを止め、ただぞっとするほど美しいだけの玉容の人なのだけれども、 もちろん人でないことは、その場にいる誰の目にもすでに明らかであった。
 姫君にしては珍しい物言いに、八馬女と磐那がなにか言いつのろうと振り返る、もその目を見て頭を下げた。確かに今その人は、この地上のすべての海四分の一とその空とを統べる のだという竜王の娘の威厳と尊さとを、全身から滲ませていた。それはその前に立った歴戦のもののふたちが、知らず、気圧され、前へ踏み出すこと適わぬほどの、圧倒的な存在感 である。
「こちらが世話になるのです。こちらの礼儀は心得なければなりますまい。」

 穏やかな声音。しかしどこか、絶対的に逆らえないような響きがある。
 ご無礼をお許しください、と小十郎に向ってかすかに頭を下げる姫君を背中から眺めながら、政宗は首の後ろを掻く。政宗様、テメエちゃっかりそっちに立ちやがってという右目の 視線は、もちろん受け流すしかない。
「先ほど申し上げた通り、わたくしは竜。この奥州の湖を、父より所領として与えられておりますれば、政宗さまとお近づきになること叶いました。」
 あーっ、それを言っちゃうと、秘密の休憩場所が、バレるんだけどなあー!とはもちろん言えない政宗である。いくつか湖はあるのだから、バレませんように、むしろそこに鬼の小十郎 が着目しませんように、と祈るしかない。
「竜だと?」
 低く地を這うような小十郎の声に、姫君はゆったり首を傾げる。ご存じありませんか、と尋ねるに、「あいにく竜は主以外に知らねえな。」となんともニヒルに、馬鹿にしきった響きを返す。それにも怒るようなそぶりを見せず、姫君はおっとりと二人のお付を手のひらで 指した。
「ここにいる磐那と八馬女については変化の類…長い年月を経た生き物が妖力を得、功徳を積んで神の域に至ったもの。」
 物の怪とももはや違います、と訂正を加え、それからいつか小十郎自身が手づから菓子をやった童女を指さす。
「この翡翠は河童。この世界に生きる河童と言う種族…潜水のための皮を一枚脱げばこうして人によく似ています。」
 やはり物の怪とは違うとそう告げて、最後の自らの胸を指した。真っ白な指先は花のように色づいており、ほっそりとゆしたその形だけで美しい調度品のようだ。
「そうしてわたくしは竜。なにが変質したわけでもなく、徳を積んだわけでもなく、生れついての竜。地に生まれ地に生きる地の竜とは違う。空に生まれ、水と共に生き、 風に遊ぶもの、神竜とも天竜とも呼ばれる空に棲まう者。そなたらとは生きる世界をところどころ重ねている。」

 歌うような口調は詩を詠むように美しく、その周りに花と光が舞って見える。確かに今このとき、この人の周りに、すべての水と星とが集まってきて、その美しさを彩っていた。 チカチカ、と思わず抜きかけた刀も忘れるような、神々しいまでの花貌。
 しかし、と唸った小十郎に頓着せず、ふいにきょとりとは口をつぐむと、それから小さく微笑んだ。
「案ずるな、そなたの家の者に害は加えぬ。」
 それは目の前の小十郎とは違うところを見ており、
「誰と話している。」
 険しく鋭く発された言葉に、やはりはおっとりと答えた。
「片倉殿のお家の家神と。流石は神職にして武家の家神よな。家の子の危機に飛んで来たらしい…我が子を守るためとはいえ勇猛果敢である。しかしこちらが世話になる以上は 手は出しませぬが、信じていただかなくては話が進まない。かと言ってあの時あのまま真実を告げずにいればいつまでも疑われることになる…ということで姿を晒せば物の怪などと 恐れられる。さて、何か良い法はないものでしょうか。」
 くるり、と振り返って、は政宗を振り返った。心底困ったような微笑に、どうにかしてやらねば、なんて別に、友達が困っているからであって美人だとかその顔がちょっとかわいく見えたとかそんな、 そんなことは、うるせえぞ地の文。
「悪いな、。どいつもこいつも頭が固くてな。」
 やれやれと額を抑えた政宗のいうことには、「やっぱり見せてやるしかないんじゃねえか。」
「あら。」
「それしかないだろ。」
 そうですねえと首を傾げて、はにこりと笑顔を見せた。それでは失礼をして、と淑やかに、庭へと続く障子が誰がふれたわけでもないのに開け放たれる。
 ぐんと背伸びをして、が空へ伸びあがった。真っ青な光の筋が、屋外へと飛び出す。青い空とまばゆい太陽の光。風の音。けれどそれだけではない、天を貫き、地を震わせる、透明な轟き。いつかの豪雨の雲の上に、鳴り響いていた音。 追って飛び出した家臣たちの、目の前に浮かんだ、それは見事な。



(20120624)