(くちにふたする)


 喋ってはいけないと、言い聞かされて育った。決して喋ってはいけないと、それだけを堅く言い含められて育った。
 娘がその禁を初めて破ったのは五歳の時、従兄弟らにいつものように虐められて、挙句石まで投げられた時だ。
 新年の挨拶のため、躑躅ヶ崎の館に大人らが集まり、連れてこられた子供らはみな中庭に集められていた。やあい人でなしの子、気狂いの子、不義の子、父なしの子。誰かが言い出し、それがあっという間に他の子供たちに伝染した。初めて言われた言葉ではなく、むしろよく耳にする言葉であったが、同じ世代の、しかも今日初めて会った子供らに、面と向かって面白半分に言われるのは初めてであった。いつもそれはひそやかに、娘から三歩も四歩も離れた遠くで、遠巻きに彼女を指して落とされる言葉であるか、特別彼女に辛く当たる従兄のおのこから、遊びで投げつけられるものであったからだ。
 その時初めて、悲しさよりも、怒りがまさった。
「悔しかったらなにか言い返してみてはどうだ!」
 もちろん彼らは、娘が唖だと思っていて言ったのだ。娘は幼い頃から、祖父と乳母に固く言い聞かされた決まり事を守って、その二人以外の前で言葉を発したことがなかった。ほとんど表に出されないこどもであったが、どうしても他人に紹介せねばならぬようなとき、必ず娘を庇護するその大人二人は、「この娘は生まれつき口が利けませんで、」と偽りの前置きをした。
 しゃべってはいけない。
 泣き腫らした目で、それでも睨みつけてくる子供に、生意気、と石が投げられる。
「……。」
「なんだよ、だんまり!」
 やめようよ、と言う子供の声を遮って、従兄が笑い声を上げる。
 嫌い。大嫌いだ。
「…。」
「くだんの子は口も利けないのか?」
 やあいやあいと囃し立てる声。頭がぐらぐらと、にえる。
 悲しい、苦しい、憎らしい。「くだんってなぁに?」「牛の体に人の顔がくっついた化け物だぞ!」きゃああこわいと悲鳴が上がる。
 ―――どうしてばかりこんな辛い目にあわねばならない?どうしてこんなひどいことばかり言うの。
 どうして。
 ぽろりと涙が零れ落ちた。
 その仕打ちは、おさない心にあまりに惨い。
 ついに娘の口が、泣くため以外に震えて、開かれた。
「……あなた、なんか」
 しゃべったぞと声があがる。
 最後の言葉は決して落としてはいけない無花果の葉だ。
「あなたなんか、死んじゃ「こおらああああああ!!!」
 娘が最後まで言い切る前に、その隣を轟と小さな力の塊が通った。
「じぶんよりもちいさなおなごをいじめるとはなにごとだ!そのようなことはしてはならぬと、おやかたさまがもうしておったぞ!」
 見知らぬおのこが、娘の前に小さな体でちまりと立ちはだかっていた。
 年のころは、娘と同じだろうか。明るい色の髪が雪と日差しを反射してきらめいていた。赤い袴。低い背。握りしめた拳が、少しばかり震えている。顔は見えぬが、そのおのこを呆然と見上げた娘の前で、彼女の従兄を筆頭に、幾人かが意地悪く口端を持ち上げる。
「なんだ、生意気。チビのくせに。」
「背はかんけいござらん!」
「なんだと。」
 あっと言う間に取っ組み合いの喧嘩が始まった。
 きゃあと悲鳴を上げて親を呼に走る者、止めようとする者、見るだけの者と様々だが、小さなおのこに加勢しようという者は出てこない。それでもいつつもむっつも年上の男の子たちに立ち向かっていく様子は、勇敢でこそあれキャンキャンと吠える子犬のようでもある。見知らぬ子犬のおのこの小さくも頼もしい背中を眺めながら、娘はふいにゆっくりと、背中から積もった雪の上に倒れた。