(ねんぶつ) |
娘が目を覚ましたのは、その日の暮れ方も遅くになってからのことであった。 「おお、、目を覚ましたか。また実利にいじめられたか。」 かわいそうにと頭を撫でる祖父に慰められて、娘、は次の日には祖父の治める領地へと帰った。 そうしてその翌々日、朝餉の席で従兄の実利が原因不明の高熱にうなされてもう三日も目覚めぬと聞いた時、の脳裏には、あの日躑躅ヶ崎の館で自らが口走りかけた言葉のことがまるで天啓のように思い出された。その時の暗く、重たい心持ちまで全て。 従兄の言動ははあまりに辛くて、やるせなくて、せつなくて、かなしくて、死んでしまえとそう思った。そしてその怒りに任せて自分はあれほど固く言い含められていた禁を破ったのだ。 は顔を青くした。 その様にどうしたと問い掛けられ娘はますます色をなくす。 それでも言葉で伝えずに、律義に紙と筆を持ったの、おじいさまと綴る文字が千々に乱れた。 『死んじゃえ』そう言おうとしたこと、しかしそれが途中で遮られたということ、それら全てを綴り終わる頃にははほとんど死人のような顔色になっていた。 私がもたらした。 私が害した。 禁を破り、怒りのままに言葉を紡ごうとした。 化け物の子なのだという大人たちの穢れを見るようなその冷たい眼差しの意味が、真実ようやっと理解できたように思えた。化物の子。件の子。件は未来のまことを語る。なればその子が語ることは、まことになる? ―――私の言葉が人を殺す。 それはなんとおぞましく、恐ろしい実感だったろう。 確かに従兄には随分と傷つけられた。死んでしまえばいいと思った。けれどもそれが真実になろうとしていることを知って、それはとなんと浅はかで、愚かで、悍ましい考えだったことだったのだろうと思い知る。 ああどうぞ死なないでと倒れそうな幼い孫娘に、祖父も同じに顔を青褪めさせ、しかししっかりとその小さな肩を掴むと、そのような考えが愚かなこと、決して其方のせいではない。あるはずがないと囁く。 件はただ一度、まことを語って死ぬ。ならばその子供は、おのが言をまこととした時いったい健やかにいられるものか? 祖父は娘がその言葉を発したとき、倒れたことを思い出し背筋をゾッと泡立たせる。 泣き出しそうに目を見開いて、恐れ戦いている幼い子供。目に入れても痛くない、彼にとっては末の孫娘だ。―――噫、どうか誰も、これを化け物だなどと私に思わせないでくれ。 祖父は震えそうになる手を必死に押し殺し、孫娘を抱きしめる。 ―――それでもこれは、私の孫だ。 身分ゆえ正室にしてやれなかったが、その分までも一等愛した妻が、たった一人遺した娘、その彼が一等かわいがり愛した娘の遺した、たった一人の生き証だ。彼の愛した女性たちの系譜の一等末端にある、一等美しいもの。 かつてすでに予感はあった。だからこそ声を発することを禁じて育てた。 庵にて静かに療養させていたはずの愛娘が、誰のとも知らぬ子を身籠って狂った。その知らせを聞いた時の、彼の衝撃や、憤怒や、悲哀どれ程のものであったか。おまけにそれが、妖の子かも知れぬだなどと微塵も信じたくなかった。最初腹の膨らんだ心ここにあらずな娘の痛ましい姿を見たとき、暴漢に襲われてできた子で、乱暴をされて娘は正気をなくしたのだとすら思い込もうとすらした。しかしそこにそのような無体を働くものの血が入っていると思えぬほど、成長する孫娘は清らかに美しく、聡明で、優しく。 そもそも生まれ落ちたばかりのを見たその一瞬だけ、彼の娘は正気に帰った。至極幸せそうな、愛おしげな、しっかりと焦点の合った目で赤子を見た。 『…。』 小さな吐息の声がそう言った。 『…其方の、名。…あの人が、そう、』 娘の頬を一筋、ついと涙が伝って落ちた。幸せそうな笑みを浮かべて、母の顔をした娘はこときれていた。 その表情ばかりが、今の彼の支えであると言っていい。 誰ぞ好いた男が、あの庵に忍んで通う男があったのやも知れぬ。その男との間にできた子だと、そう思おうとその時決めた。 失いたくない。 「お前は私の孫、私の孫だ。」 言い聞かせるように、呪文のように唱え続ける。 噫今熱を発して、死にかけているのもまた彼の孫だと言うに。それでもどちらも損ないたくない。悲しい弔い方をするのは、娘だけで十分だった。 「大丈夫だ、大丈夫…どこにもやりはしない。お前は人の子だ、私の孫だ、悪い偶然だ、馬鹿なこと、お前の言葉で人が死ぬなど、」 念じるように唱えるその言葉が、誰に向けられたものなのかなど、もはや彼自身にもわかりはしなかった。 |