(とらのみまい)


「具合はどうじゃ。」
 本来このように気さくに顔を出す人物でないのは当たり前だが、しかし當然のようにこうして顔を出すからいけない。ひょっこり覗いた頼もしい顔立ちに、横になっていた男は思わず恐縮するのも忘れて顔をほころばせた。
「お館様、」
「よい、よい。病人は寝ておれ。」
 起き上がって礼を尽くそうとするのを大きな手で留め、武田信玄、その人はどっかりと枕もとに腰を下ろした。床に就いたこの男、小幡重貞と武田信玄その人は、齢こそ近いが前者病を得たせいか、十も年が離れて見えた。
「して、具合の方は。」
「は。御蔭様で恢復へ向かっておるとのこと。最近は随分、心持も軽う感じます。」
「それは重畳!早う治せよ、重貞。」
 ぽんと大きな手のひらで膝を打ち、信玄が呵呵と笑うのをなんとも言えずおかしそうに重貞は床から見上げてわらう。実に良い主従であるのだ。
「しかし私も、此度病を得て、色々と考え申した…お館様の許しさえいただけましたら、そろそろこの国峯城のことは息子に任せようかと思うております。」
「ふむ、信貞にのう…あの者なら任せて大事なかろうが、お主もしやそのまま隠居するなどとは言うまいな。」
 言わせまいぞと虎の目玉がぎょろりと彼を見、それに重貞はやはり笑って見せた。
「お許しさえいただけましたら、昔のようにお館様の御膝元にてお仕えいたしたく。」
「躑躅ヶ崎の館にか。それはよい!」
 碁の相手が増えるわ、とにやりと笑う信玄公の狙いはもちろん嗜みの碁の相手を得るためばかりではない。今でこそ弱弱しく床に伏しているが、小幡重貞この男こそ、赤具えにて戦場を駆け巡り、剛弓で鳴らした武勇の人である。信玄の私室にて碁盤を挟んで向かい合うのは、軍師山本官兵衛を初めとする甲斐の虎に仕える煮ても焼いても食えない逸物ばかりであるから、そこにこの重貞が加わればまた、なんという虎に狸に狐にと、曲者ぞろいの楽しい集いとなるやら。
 ひとしきり近況を聞かせ合い、ふと重貞が口調を正した。
「…実はお館様に折り入ってお願いがあるのです。」
 緊張したような雰囲気に、思わず部屋が静まり返る。
「………遺言なら聞かぬぞ。」
 その言葉に、言い出した方はきょとりと目を見開き、そのような顔をしていたかと表情を緩ませる。
「はは、これは手厳しいこと。しかしこの老いぼれ、まだまだ死ぬつもりはございませんぞ。」
「…ならば聞こう。」
 ゆったりとそう頷く主に、重貞は病床で静かに小さく頭を下げた。
「なんとありがたいこと。…実は私の孫娘のことなのです。」
 よもやそのW願いWが孫娘のこととは予想だにせず、信玄の目がきょとりと開かれる。
「おう、息災か。」
「お陰様で。今年十七になります。」
「なんと!幸村と同い年ではないか!」
 このような手近なところに良い物件があるとは失念しておった。などと勝手にうなる主君に重貞は病の床から苦笑する。
「まだどんな娘かもご存じありませんでしょうにW良いWだなどと。」
「む?しかしてお主の孫であろう?」
 さも當然と言わんばかりのその様子は、まったくこの齢になってもくすぐったいったらないと重貞は思う。
「名前をと申します。亡き弘の忘れ形見であれば可愛さもひとしお。かわいそうなことに父も母もなく、私が育ててまいりました。」
「弘姫の…。」
 まことよい姫子であったと感慨深げに頷く主君は、やっぱりとんでもない人たらしであるにちがいない。恐らく弘姫と言う名についてくる忌まわしい枕詞を覚えておらぬわけでもあるまいにそのそぶりすら見せぬ。その仕草、声ざまは、ほんとうにただただ昔あった人を純粋に懐かしみ、惜しむばかりに映る。それがどんなにか、重貞に優しいことかわからぬはずもあるまいに。
「まだ死ぬ気ございませんが、しかしやはりいつ果てるとも知らぬ身、あの娘が一人残されるかと思うと不憫で不憫でなりませぬ。」
 そんなだから、つい、主君であるのに甘えた言葉を吐いてしまう。武田信玄その人は、厳しく妥協を許さぬ人であるが、なにより徳の人である。その人たらしとしか言いようのない手腕手管で、いったいどれほどの人をたらしこみ、虜にしてきたのやら。どこまでわかってやっているのか、知っているのは信玄本人ばかりだが、どこまでも知ってやっていたとて、この御仁になら誑かされたいと思わせるからきりがない。
「気弱なことを言うでない。」
 ああまったく、優しくていけない。
「やはり病をもらうと人とは気弱になるものでございますれば。お館様、…どうぞお願いでござります。あの娘を、何卒、よしなに。」
「おう、もちろんじゃ重貞。どうだ、なんなら幸村の室にくれぬか。」
 男はゆるゆると首を振る。
「あの子は誰にも嫁げますまい…いや、嫁ぎますまい。」
「……?弘姫の娘でよほどの醜女と言うことはあるまい?心持ちは言わずもがな。」
 お主が手塩にかけて育てたのだろう?
「…美しい娘です。……それはもう美しい。」
 だのにその祖父が嫁には行けぬというのだからわからない。
「ふむ、面妖な。」
「…口が利けぬのです。」
「ふぅむ、病か?だがそれだけで嫁げぬことはあるまいに。」
「……幼少の砌、自ら火を呑み咽喉を焼きますれば。」
「なんとしたこと!」
 信玄が思わず目を見開き純粋に驚きの声を上げたのも致し方ない。どうしてそのような恐ろしいことを、幼い娘が自ら進んでしようというのか。部屋の温度が少し下がったようだ。
「…お館様、お館様を一生の主と見込んで、この重貞、一生の願いにございます。あの娘は…あの娘は、なんの因果か哀れな星に生まれたのです。どうぞこの爺亡き後、あの子が一人で生きてやなけるようお取り計らい下さい。お館様とて覚えておいででございましょう。弘が、私の娘が、物の怪に憑かれて死んだというあの悍ましい噂は。」
 あやかし。もののけ。
 なんとも花の娘を語るにふさわしくない言葉が飛び出てくるものだ。しかしそれを笑い飛ばせぬだけの必死さが重貞にはあり、そうして信玄も、少なからずその噂をかつて聞き及んでいた。
「…知っておる。だが信じてはおらなんだ。あれほど情に篤い娘が、物の怪になどと……信じられぬ。まさか事実と申すか。」
「…わかりませぬ。ですが正気を病んだのは事実。お館様、このこと誰にも他言せぬと誓っていただけますか。」
 見上げる重貞の目はしっかりとしており、病床にあって正気を病んだ譫言ではありえまい。静かにその眼差しを受け取った後、信玄はゆっくりと首を縦に一度振った。
「…相わかった。…佐助、おるな。」

「……はぁ、いますよ。」
 しばらくの沈黙ののち、しかしその沈黙に根負けしたように、コトリと天井裏から返事があった。
「悪いがちぃと外せ。」
 大きなため息が天上裏から聞こえてくる。
「忍は人じゃあありませんよ。」
「今儂はお前とその問答をする気はないぞ。」
「…。」
 なんとも奇妙な沈黙だ。
「佐助。」
「あー…はいはい、わかりました、お話が聞こえない距離で侍らせていただきます。でも!これ以上はお館様の命令でも聞けませんからね。」
 あらかじめ先回りして釘を刺しておかねば、W本気のW人払いをされてしまうとでも思っているようなその物言いに、重貞も思わず苦笑する。
「すまぬのう、猿飛殿。」
「いーえ!うちの大将連中ときたらほんっと人の言うこと聞きやしないんだから守る方の身にもなって下さいって感じですよね〜!もう小幡様からも一度ひとこと言ってやってくださいよう!」
「ははは、耳が痛いわ。」
「まったく生意気な忍であろう?」
 主君と臣下の良く似た人は悪いが気持ちの良い笑い方に、溜息を隠そうともしないで忍は去っていくらしい。元から絶たれていた気配が完全に消えるまで、それを意識で追いながら、二人は黙っていた。
「…して。」
 完全な沈黙と部屋にある気配が自らたちだけのものであると察して後に、ようやっと信玄が口を開いた。
「弘は正気を病み、その時にはもう誰のことも知れぬ子を宿しておりました。」
 当時噂を否定もせねば肯定もしなかった、その男自ら明かされる言葉に信玄も息を呑む。
「なんと…美しい娘であった、誰ぞ忍んでかよう者でもあったか…賊な輩か。」
 最後に目にした儚げな姿が、遠い記憶の彼方よりおぼろげに蘇ってくる。
「前者であると、私は固く信じております。それに父がなんであれ、あれの半分は弘で、私の孫です。」
 こう他人にはっきりと言えるまで、一体どれほどの葛藤があったろうか。同じように娘を持つ信玄にすら、その覚悟とも言える姿勢は潔く、好ましいものに思える。
「うむ。その志や立派!」
 なにより重貞本人が、そう思い定めているのであれば、ならばなにも問題ないように信玄には思えた。きっとそう思い定めた心のままに、その娘を慈しんで育ててきたに違いあるまい。
「ですがあの娘は……」
 重貞はそこまで言うと痛ましげに目を伏せた。
 ―――信じております。
 釣り込まれるように、信玄がその顔を覗き込んで問う―――なにを?

「自分が件の…、妖の子なのだと。」