(はくしかのたつ)


 国峯城が城主、小幡重貞が孫娘、なる女子が信玄公付きの奥女中として躑躅ヶ崎の館へ勤めることが正式に決まり、すべてがそのように取り図られたのは、虎の見舞いから一月も経たぬ間のことであった。
 美しいがどうやら口が利けぬらしいとは専らのうわさで、しかし曰く付の娘であることを知るものはそこまで多くもなく、若い者に至ってはそのほとんどが知らぬところである。仮にも一城の主の醜聞とも言える噂であるから、当時固く口止めがなされたのが今更に功を奏しているのかもしれない。

 静かに目の前で三つ指を付き、頭を垂れた娘を、ふむ、と信玄は上から下まで見下ろした。美しいとは聞いていたが、まったくもって匂やかな、透けるように色の白い娘である。凛と賢げな眼差しに時折滲む隠しきれない怯えと、着物の上からでもわかる細い手足は、生まれたての鹿を前にするような心地を抱かせる。虎であっても思わず息をつめて見守ってしまうような危うさと儚さ、そうして尊さとがそこにあるのだ。長い睫に縁どられた黒い目玉が瞬いて、そっと光を散らすようだ。躾が行き届いているのだろう、所作のひとつひとつに品がある。
 その様を見、はて虎若子の隣に、そっと白鹿を並べるのはどうかと、信玄はひとり腹の中でニヤリと算段するのである。
 鹿の例えが悪いなら、夕顔はどうか。宵闇に白く咲く夕顔。どうして娘にぴったりではあるが、なにせ女人をその花に喩えるのはいささか有名過ぎる前例の末路が前例であるだけに縁起が悪い。
「面を上げい。」
 その言葉に、娘と、それから隣で同じように頭を下げていた男が顔を上げた。どこか眼差しが似通っていて、並べてみるとやはり血縁である。主君の顔に浮かぶ満足げな色を見てとるに、男はもう一度、深々と頭を下げた。
「信玄公に置かれましては何卒…何卒この娘をよろしくお願いいたします。」
 その科白に驚いたように慌てる娘がおかしい。くつりと口端を持ち上げる信玄に気づかず、娘はすっかり動揺しきりである。
「口も利けぬ上生来の引っ込み思案で―――このまま尼寺行きかと思うておりましたがお館様に使っていただけるのであれば身に余る光栄にございます。如何ぞ…如何ぞ、」
 信玄の前で畳に額を擦り付けるようにするこの人は、の叔父、亡き弘姫の腹違いの弟に当たる。
「亡姉の忘れ形見でありますれば―――、」
「うむ。任せあれい!悪いようにはせぬ。」
「ありがたき幸せ…!」
 はくはくと言葉を発さぬ娘の花の唇が開いては閉じる。よもやこのように、自分のために叔父が頭を下げるなど思いも寄らなかったと言わんばかりの仕草だ。
「仲の良い姉弟であったからのう。」
 その娘の戸惑いを吹き払うように、信玄がわらうと男もやっと顔を上げてわらった。
「ええ…我が母はあれでなかなか、気難しい方でございましたから、腹は違えど姉上がここまで私を大きくしてくれたようなものです。」
 初めて聞く話なのだろう、娘が目を白黒させている。
「なかなか構ってもやれず、父に任せきりで寂しい思いをさせて参りました…ですから何卒、せめてお館様におかれましては、平によろしくお願いいたしまする…!」
 おじうえ、と音のない唇で、しかし確かに娘は囁いたようだった。誰にも聞こえはしなかったが、その細い指先が遠慮がちに叔父の肩に触れるのを、信玄も叔父自身も、満足そうに、嬉しげに眺めている。信玄を振り返って、ガバリとひれ伏した娘の目から、怯えがわずか和らいでいるのを見、信玄は「励めぃ!」と気持ちよく笑いながら、やはりこの娘、まことW良きW物件よ、と内心ほくそ笑むのである。いったいこの瞳やしぐさから、恐れと怯えが消え、真実自由にその足で立つ姿は、一体どれほどうつくしかろう。

 …と、いうわけで。」
 もちろん三点リーダ部分は語ることもなく割愛である。ポカンと主君を見上げている若武者に、勿体つけて信玄はうむと頷いて見せる。
「すでに聞き知っておろうが此度儂の奥付き女中となったぞ。幼い時分の病で声を失しておる故、挨拶は筆にて許せ。」
『よろしくお願いいたします。』
 すでに紙に書かれていたらしい文字を差し出した後で、娘は静かに頭を下げた。
 ポカンとしていた若武者は、しかし娘の深々と下げられたことで露わになった頭の天辺を見、それから慌てて首を何度も縦に振る。
「う、うむ!」
 こちらこそよろしくお頼み申す、と勢いよく頭を下げた幸村は、ぱっとその頬を赤らめこそしたが、普段の、破廉恥イイイイイイイ!!なる絶叫がその口からほとばしる事はない。それにおや、と若武者の後ろに控えていた忍も信玄も目を丸くして顔を見合わせた。けれどもそれは一瞬で、瞬く間に二人の顔つきは悪巧みの時のそれになる。
「これ幸村、名乗らぬか。」
 その声の響きに含まれる悪戯気なそれに気づかず、生真面目な若武者はハッと己が失態に気づいて顔を青くしたり赤くしたりした。忙しいやつよのう、というからかいの言葉ももちろん耳に入ってはいない。
「な、名乗りが遅れ申した!!そそそ某!」
「…旦那、声がでかいよ。あとそが三回も多いよ。」
「ハッ!!も、申し訳ござらぬ!!!」
 たまらず後ろから囁き落とされた言葉に、ガバチョと頭を再び勢いよく下げた若武者の勢いに、娘は目を白黒させている。ええと、と困ったようにどっしりと背後に座った主君を眺めると、うむ、と一言頷かれ、娘は身振りだけで断りを入れると立ち上がった。一旦遠ざかった足音はしかしすぐ戻ってきて、若武者の目の前に下敷きの布と紙とがふわりと置かれる。墨の匂い。
「あ、」
『私はただの女中でございますれば、どうぞお気を楽に。』
 少し困ったような微笑が、若武者の真ん前に晒されている。それにしても優しげな声ざまが、うっかり聞こえてきそうな文字捌きであった。二度三度と目を走らせて、彼はしかし懲りずに首を振る。
「しかしながら小幡殿のご息女にそのようなことは!」
「幸村よ、女中相手にそれでは小鹿が仕事がしづろうて敵わぬ。」
「はっ!!!ももも申し訳ござりませぬお館様し!し!しかし某…ぬ…?小鹿…殿?」
 きょとーんと頭の上に疑問符を浮かべ、若武者は首を傾げる。聞き覚えのない名である。
「なに、儂がをそう呼んでおるのよ。小鹿のような愛らしさであろう。」
 それに苦笑を浮かべる娘の様子を見るに、もはや諦めているらしい。
「ほら旦那、ご挨拶。」
「ハッ!」
 今度こそ、としっかり正座で娘に向き直り、凛々しい眉間にしわを寄せ、耳を赤くして若武者が口を開く。
「某は武田が一番槍、真田源次郎幸村と申す!!以後!よろしくお見知りおきを!!」
 天!覇!絶槍!とでも聞こえてきそうな勢いだ。戦場の名乗りじゃないんだからさあ、と言う忍の言葉は、もちろん彼には聞こえていないのである。