(とらのふところ) |
は突然降って湧いた奉公話に驚く間もなく、あれよあれよと言う間にこうして躑躅ヶ崎の館に一室を与えられ、館にたった一人の奥付き女中などという仕事と言えばいいのか破格の扱いと言えばいいのか、を受けている。 奥付き、とはいえ信玄の室はみな鬼籍に入っており、子供らも皆それぞれ立派に巣立っていっておらず、つまり奥にいるのは信玄公ただひとりである。そのため妻子が全員そこを出て後、今まで特に、奥付き、の名でくくられる女中が置かれたことはなかった。そもそも東国の気風か主故か、男所帯と言ったイメージがこの館にはある。もちろん炊事や洗濯、そのほかにも様々の世話をする女中たちはいるが、奥ゆかしい女社会がそこにあるかと言われると、是とは首を振りがたい。 しかし何がどうしたことか、はそれになってしまった。 の仕事と言えば、まず朝早く起きて着替え軽い朝食を済ませる(もちろん御毒見の意味合いも含まれている。)と、信玄公を起こし(しかし大概が廊下から声をかける頃には信玄は目覚めの一服を決め込んでいるのが常である。)、それから朝餉の膳を運び、お付き合い程度に同じものを食し(もちろん最初は固辞したものの信玄の手腕手管に折半案としてこうなったのである。)、それから膳を下げ、茶を入れ、着替えを手伝って、信玄が朝議や鍛錬に出る場合は見送り、その間に部屋を掃除したり、花を活けたりする。書きもの仕事の折には、墨が渇くまで重ねられぬ紙を並べて干したり新しい紙を足したり、それらの書類を束にまとめたりと忙しいがそれもたかが知れている。それから八つ時の菓子を用意したり、乞われれば琴を爪弾き、茶を淹れ、話し相手―――にはなれぬが信玄の暇つぶしの相手をする。湯浴みを手伝い、それから夕餉の膳を運び、床を敷き、挨拶を済まして部屋へ下がる。来客があれば取り次ぎ、というのももちろん奥付き女中の大切な仕事であろうが、口が不自由ではままならぬことも多い。が、そこは間に小姓をひとり挟んで、取り次ぎもなんとかこなしていた。小姓一人にやらせればよいのにとも含め誰もが思うところであろうが、これも女中の勤めぞと言われればこなすよりほかにない。 正直彼女にとっては、祖父である国峯城城主の世話回りをしていた時と大差ない暮らしである。祖父以上に、信玄は行儀作法に厳しかったが、それこそ望むところだった。変に甘やかされなぞしたら、自身がいたたまれないような気がしてたまらないからだ。 しかしそもそも、自分のような―――耳に入っていないはずがない、自分のようなW半妖Wと呼んで差支えないだろう不気味な半端者を奥に上げるなど正気の沙汰ではない―――とは思う。ましてやそれを、『小鹿』などと呼んでかわいがるとは、虎の懐はあまりに広く、はいつも足がすくんでしまうような底のなさを覚えた。 しかしもちろん、いつまでも祖父の手元におれないことも理解していた。 さっさと尼寺へでもやってくれと言えば、あの祖父は泣いて喚いて許さない。かと言って手元においてどうなるものでもあるまいに、それでも祖父は、を手放そうとはしなかった。であるのに病を得て、何を思ったかを外に―――主君である武田信玄その人の側仕えとして、外に出した。いきなり過ぎる。しかしかと言って、そこ以外に思いつかなんだと言われればにはどうにもならぬことだった。 「行ってくれるな、。」 見事お館様にお仕えしてみせよ、と言われれば、彼女には頷くよりほかになかった。 祖父の目の奥に、私のいなくなった後、という先まで見越した深い憐れみを見てとっては、何も言えなんだというのが正解だ。祖父が自分を、それこそ目に入れてもいたくないほどかわいがってくれているのは理解していた。けれどそこに、かわいそうにと憐れむこころがあるのも知っている。その眼差しはいつも、を掬い上げこそしたが、同時に暗い事実も突き付けた。 初めて会った武田信玄その人は、それこそ体が、ということではない、その心が、大きな山のような人であった。 どれだけ多くの人を、物を乗せても、決して崩れまい、歯牙にもかけまいという確信があった。それこそ底の知れない、海のような方である。がっしりとした顎、生気に満ち溢れた大きな眼、ニヤリと言う笑い方。やはりこの人は山だ。ポカリと目を見開いたに、信玄は「、励めぃ。」とだけ笑って見せたのだ。 そこにはなんの、憐憫も好奇もなかった。 ただ信玄の前に置かれた、なる小娘をのみ見ている目があった。 は平服した。 なんと山のように動じぬ、大きな方だろうか。 きっとの姿かたちが真実人と違っても、同じようにこの人は笑って励めと言うだろうと思った。人見知りをする暇もないほど、彼女は信玄に圧倒されて―――気がつけば日々勤めをこなしているのだ。自分でも信じられないほど、今までの暮らしと比べればだが…たくさんの人と会う。思わず竦みそうになる時も、背中で信玄が頬に手をやって肘をつきながらわらってみておられる―――と思うと背筋が伸びた。臆するより前に懐の、『主人に伝えて参りますので今しばらくお待ちください。』の紙に手が伸びるのである。 信玄様は法力が使えるのかしらん。 思わずが、そう訝しむのも無理はない。それほどは、ただ口が利けぬというそのことだけを除いては、普通の娘のように―――いや、真実普通の娘として、女中として扱われ、そして彼女自身も、そう振る舞ったのである。息をすることすら引け目に感じた国峯城での暮らしがそれこそ悪い夢のようだ。 この奇妙な優しさ、厳しさに馴れてしまうのがこわいとすら、は感じ始めていた。 いったい虎の懐と言うのは、一度入ればなんとも居心地がよく、とてもここをでて生きていけるような気がしないのである。は自分が、今までいかに甘やかされ、そうして同時に隠されて育ったかを突き付けられる思いだった。 祖父はをかわいいかわいいとかわいがったが、誰にも見せようとはせなんだ。信玄もまたをかわいいやつよとそれこそ孫にするようにかわいがるが、あちこちに見せびらかして回る。 『ほう、これが噂のお女中殿でござるか。』 『随分とよく働くと評判ですぞ。』 『なにそれだけの器量なら口が利けぬなど些細なことよ。ご安心召されい。』 『お館様に言うては下さらぬか、酒はほどほどにお控えなされよと。』 『ほう小幡殿の。あやつめ隠しておったな。』 『殿は秘密を漏らす心配がないからよろしい。』 ところどころ遠慮も何もありゃあしない、むしろ不躾とも無礼とも紙一重の言葉も含まれるが、それらはみな純粋に、には初めて触れる、なんの衒いもないという人間への単なる評価である。それがには驚きだった。知らぬからだと言ってしまえばそれまでだが、不義の子、父なしの子、件の娘とそう言ったものではない、、という小娘に向けられるだけの目線がこんなにもありがたいということを初めて知った。 同時にこの館の人々に、自らの出自を知られることが、ますます恐ろしくなるのを日毎夜毎に感じている。 もし、自分が妖の子だと知れば―――。 みな蔑みと憐れみの目で、を見るだろうか。 当たり前に受けてそだった視線、受けて然るべき眼差しを再びその身に受けるだけだと、そう考えるにはあまりにそれは冷たいのだった。 「のう、小鹿よ。」 だからこそこうして、それらすべてを知ってなお、他の者と同じように接するこの信玄の優しさという言葉では括りきれぬ深さが、時折どうしようもなくを慄かせる。 控えめに、と幾らたしなめられても減らぬ酒量に、は最近遠慮をちょっとばかりかなぐり捨てて、注ぐ量を減らしまくっている。もうこの館へ来て半年が経った。自分でも驚くほど、は虎の懐深くに大切に仕舞いこまれ、しかし同時に容赦なくその外に叩き出されもする。どこかへ連れて行かれようとしている、それだけはわかった。 この方は私をどこへ導くのだろう。 思ったところで想像などつくはずもなく、しかしその導かれる先に否やを言えるはずがないことは、自身がもっともよくわかっている。生まれてこの方身内にすら、怯えを抱いて生きてきたこの自分が。そのがまたこの男の周りに集まる多くの者と同じに、この虎になら何度誑かされてもよいのではないかと、思い始めている―――。 「よい夜よ、のう。琴はどうだ。」 子供のようなその催促に、くすりと件の娘が口端を持ち上げる。それを信玄は目を細めて見た。ついでに酒をもうちいと注いでくれるとうれしいんじゃが、などと嘯くのも忘れない。が微笑うその時、目じりが少し下がって、帰る家を見つけた子供のような、安堵した笑い方になるのをきっと彼女自身知らない。 |