(なみだあめ)


 躑躅ヶ崎館の生活はそれはにとっては優しく、だからこそ時折底が知れないような気持になって、とてつもない憂鬱に襲われることがある。それは一過性のもので、しかし避けようのない春嵐のような苛烈さで突如としてを襲った。だからこそそういう時、は物陰でじっとうずくまり、その波が過ぎるのを怯える子供のようにただひたすら待つしかない。勤めの最中にその波が襲うことは少なく、夜、特に人のいない雨の降る晩はよくはそうして寝所から這い出してうずくまっていた。部屋の中にいては、部屋の四方の隅が彼女に迫りかかってくるような気がして、とても息ができぬのだ。
 暗闇に押し潰されるような気がして、その晩もは縁側に膝を抱えていた。すぐ庭先で虫が鳴いている。静かな夜だ。しとしとと細かく、ほとんど霧のような、やわらかい涙雨だ。けれどももちろん、にはその雨のやわらかさなど知るすべもない。緑の木々から立ち昇る湿気は、彼女の体に重たく圧し掛かった。
 こういう夜は、癒えた筈の咽喉が痛む。
 肉を焼くあの痛み、しかしそれ以上に彼女の心の臓を焼いた、あの恐怖ばかりが蘇ってくる。
 叫び出してしまわないように。
 そればかりを念じて、は胸を抑えて蹲っている。
 この憂鬱にももう慣れた。こうしてじっと、一刻も蹲っていれば収まる。それまではただ、なにも考えないように、
「誰だ。」
 夜闇を律するような、鋭い声音だった。
 それにはっとが顔を上げると、闇の中、きょとりと見開かれた丸い目玉と目が合った。
殿?」
 見回りの途中だったのだろうか、声の主は槍を手にする力を抜いたようだ。は一瞬状況が判断できずに動きを停止する。しかし涙は、重力に逆らうことなくはたりと落ちた。涙と夜にぼやけて、相手の顔が見えない。
「…また泣いておられるのか。」
 薄く雲が途切れて、声の主を照らした。まだ雨は降っている。声をかけてきたのが挨拶をして以来ほとんど関わりのなかった若武者であることを知って、は思わず顔を隠すことも忘れて首をかしげた。また、とはいつのことだろう。の疑問が伝わったのか、気になされるなと首を振りながら幸村は近づいてくる。
「どうなされた。」
 鬼にでも追われましたかと尋ねる声様はいかにも優しげだった。
 どこか親しげな様子で、けれどもやはり、緊張しているようだ。ぎこちない仕草で、幸村がの前に膝を付く。正面から泣き顔を見つめられて、ようやくは袖でぱっと目元を隠した。今更だと思ったのはもちろんだけではなかったろう。おやと幸村は笑ったようだ。
 自分が子供のように泣いているせいだろうか、には、幸村が、昼間に受けた印象よりもずいぶん落ち着いて、大人びているように感じられた。年も同じだと信玄公から伝え聞く。その幸村が立派にこうして勤めを果たしている最中に、べそをかいている自分がなんとも言えず恥ずかしい。けれども憂鬱はまだの胸に重くのしかかっている最中で、胸の前で握りしめた手のひらがカタカタと震えた。口から洩れる吐息も凍えた人のそれに似ている。
「苦しいのか?」
 はたと思い当たったように、心配そうな声ざまで尋ねられて、は慌てて首を横に振る。
「どこか痛いところが?」
 これにもなんとか首を振ると、はて、と困りきったような、それでも優しい顔と目が合った。かなしいのか、さみしいのか、ひとつひとつ尋ねては首を横に振ると、幼い時分に帰ったような気分になる。
「怖い夢でも見ましたか。」
 それが一番近い気がして、は無意識にことりと首を前に倒した。
 そうかと幸村は顎に手をやって、さてどうしたものかと首を傾げる。その間もまた、の目からはたりと大きな雨粒が落ちて、内心彼は、大いに慌てていたのである。どうも慌て過ぎると、一周回って落ち着く性質らしい。頼もしいと言えばいいのだろうか、とは屋根裏に忍んでいる誰かさんの呆れていいのか感心するべきなのか迷った末のひとりごとなのだけれど、生憎と誰にも聞かれることはなかった。隊長に報告、すべきかしら。
 一方屋根の下の幸村は、小さく蹲ったままのの握りしめられた手のひらを見ていた。すっかり白く、血の気が失せてしまっている。それがなんともかわいそうで、幸村はやはりどうにかしてさしあげなければと思う。
 こわいゆめ。
 昔よく、それで佐助に泣きついたっけ。思い起こして、彼ははた、と顔を上げる。
「おお!」
 真夜中なのに大きな声。びっくりしたの顔に、今さら大声を発したことに気が付いて顔を赤らめると、幸村は肩を竦めた。しかしそうだ、おなごが泣いている一大事なのだし、少しの大声くらい、許してほしい。
殿、某いい呪いを存じておりますぞ。」
 おまじない?と聞き返すように、がかすかにわらったようだ。どうしてだか幸村には、この娘の言葉が聴こえるような気がしてならない。はいと頷きながら、幸村はわくわくするような気さえする。効くだろうか。それとも忍でなければ効かないかしら。
「目を瞑って下され、」
 はいと素直に閉じられたの目蓋から、すうっと一筋、雫が伝う。どうしてか一瞬、その筋が滑る頬のまろさ白さに意識を取られて、幸村はぶんぶんと首を振る。大きな右手をの頭のてっぺんに当てて、ぽんぽんと優しく二回たたいた。
 ええっと、それから佐助はどうしていたっけか。
「ばくこい、ばくこい。」
 それだけ唱えて、手を離す。
 もういいのか、と目をゆっくりと開いたに、幸村は神妙な顔で尋ねた。

「…ばくとはなんでござろう。」