(つまごうひと)


 ひどく久しぶりの、それもまさか向こうから声をかけてくるとは夢にも思わない相手に声をかけられて、は顔を青褪めさせていた。どうしてこの優しい躑躅ヶ崎の館で、国峯の城と同じ眼差しで彼女を見る男に会うのだ。
 今すぐここから逃げ出したい。
 逃げ道を探しての目がぐるぐるとあちこちを見渡すが、とても逃げられそうになかった。脚が竦んで、一歩も動けそうにない。気持ちだけが焦る。どうして、どうして、ここにいるのだ。
 従兄の実利が、の渡る廊下のすぐ手前に座って、彼女を見上げているのである。
「どうせお前に嫁の貰い手などないのだから私のところへ来たらどうだ。」
 唐突にその人が言った言葉が、には同じ言語に聴こえなかった。
「いくら美しくとも、件の娘なぞ誰が嫁にもらうものか。」
 だから俺がもらってやると言外に男は言うのだ。なぜと思いきり顔をしかめた彼女に、喉の奥で笑いながら男が娘には信じられないような柔らかい眼差しをする。そんな目で見てくれるなと逃げるように顔を背けたをからかうように見つめながら、その目ばかりが真剣だ。
「なぜって顔してるな。…まあ無理もない。昔はずいぶんお前をいじめたから。」
 そうだ、そうして初めて娘に殺されかかった。そうだったではないか。誰よりも化物の脅威にさらされた少年。それが彼ではなかったか。
「あの頃は随分いじめた。」
 その分思い切り仕返しもされたが、と本当にまるで誰にでもある幼い時分の、ただの喧嘩を思い出すような口調で男は笑う。それでいてなお幼い自分が死にかけたのはこの娘のせいだと信じている。
「なぜあんな風にいじめたか、お前は知らないだろう。」
 クツクツと低い笑い声。大人の男の人の笑う声だと思っては愕然とする。彼女にとって実利は、いつまでもあの頃のまま、十一の意地の悪い少年でしかなかったはずなのに。
「知っていたからだ。」
 真っ直ぐな眼差し。
 こんな目をする実利を知らないと、は思う。
「知っていたからだよ。いつかきっとこうやって、お前に妻乞いをすることになる。お前がどんなに美しい女になるか、知っていたからだ。あの頃から美しかったが、今のお前は確実に、この甲斐で、いやこの日ノ本で、一等美しい女だよ、物語。」
 美しければ化け物でも構わない?いいや、違う。
 男はの長い髪を本当に思い人にするように一房、愛おしげに指先で掬った。
 怯えたように竦んで動かないに、やはりお前にはまだ早いかとは思ったんだがと男が苦笑する。の内側が、まだずいぶんと幼いままなことを、彼は知っているのだ。
 それでも。
「お前なら化け物でも構わない。」
 もうずっと、ずっと前から。
 そう言う。
「…待つつもりだった。散々いじめて怖がられているだろうから、時がたって、もう少しお前が大人になるまで。」
 けれどと続けたその口調はもはや苦笑してはいなかった。
「いきなり横から出てきた小倅に、攫われてはかなわん。」
 どうしてその言葉に、真田幸村の顔が浮かんだのか。
「嫁に来い、。」
 何からも守ってやるとその口が言う。かつて傷つけたその百倍も、慈しんで大切にしてやると言う。
「熱が下がってから、お前が火を呑んだと聞いて…ずいぶん後悔した。俺はただ、…許せ、お前を見ると可愛くて、可愛くて、思わず意地の悪いことを言わねば、普通に話なぞ、とてもできなかったのだ。」
 本当に可愛くてしかたがないというようにおとこが、を見、切なげに目を細める。子供だったのだ、そう言って苦笑すると、くしゃりと男は自らの前髪を握る。その様子がひどく大人びて見えて、なぜだかドキリとさせられる。
 それでも頬を青ざめさせたまま黙っているに、男はふいに笑みを消した。
「俺のところへ来い。」
 は黙っている。
 これだけ言葉を重ねられても、戸惑いに似た恐怖が勝る。カタカタと子供のように震えるばかりのに、男は静かに昔のように、つい、意地悪を言った。
「真田のになんと言うつもりだ。」
 槍でつかれたように、の胸がキリキリ悲鳴を上げて痛んだ。
 聞きたくない。思わず身を翻して駈け出したの背中に言葉がついてくる。とっさに耳を塞いだ指の間から言葉は滑り込んできた。

「私の父親は、半身半獣の件という醜い妖で、母はその怪にとりつかれて気を狂わせ死んだ、いやしい物の怪の娘だと。」