(あいのこ) |
間の子。 その言葉が聞こえただろうに彼は何も問わなかった。それがには、耐え難いほど辛い事に思われた。 幸村はずっと黙っている。怒っているようにも困っているようにも見える顔で、口を真一文字に結んで、それでもまるで離したらが逃げていくと固く信じているように、その手首を捕まえたまま、人気のない縁側に並んで無言で腰かけている。掴まれたままの右手が熱く、左手で未だに止まってくれそうにない涙を押し留めようとしながら、はしゃくりあげるのもなんとか止めようとする。 泣いていてはいけないと思うのだが止まらない。 一体自分がなぜ泣いているのかすらわからなくなってきた。悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、驚いたのかもわからない。なにか言わなくてはと思うのに、こういう時、声を持たないのは不便だ。ヒュウと喉が鳴り、よくない徴候にはますます口を噤もうとする。 迷惑をかける。 これ以上迷惑なぞかけようがない気がするが、本当にこれ以上みっともないところを見せては、呆れられてしまうだろう。初めてにできた年の近い茶呑み友達であるのに、どうしてこうも、情けないところ、見られたくないところばかりを見られてしまうのだろう。 生まれ育った城から離れて、なんだかすっかり、害のないものに、信玄の呼ぶ小鹿のようなものになった気でいた。 けれども違う。 違った。 の罪の形は、こんなにも目に見える形で、自らの意志を持ち、の前に自ら歩いてくる。忘れることなど許さないと言うように、真綿で首を絞めるかのように優しく、そうして残酷に。 ―――おれのところへこい。 それがどういう意味か、わからぬほど子供ではなかった。しかしその言葉の意味も、そこに込められた想いも、彼女にはわからない。理解ができない。どうして化け物だと告発するその声で、同時にただの女人に対するように、妻乞う言葉を投げることができる? しかしそれよりなによりも、幸村に「あいのこ」という蔑称を聞かれたことこそ、彼女の心臓を千々に裂くような気がした。あんなにも冷たい言葉、それがこの躑躅ヶ崎の館で発せられたことが悲しく、それをこの屈託のない若武者の耳に入れてしまったことも悲しかった。この館に来るまでののことを、何一つとして知らないこの人との時間が、にはとても優しかったことを今更に知る。信玄はすべてを知ってを見とめた。佐助は知らずとも何か察している。しかしこの真田幸村という若武者は、自分の目の前にいる、彼が見たことがあるという存在だけを認識していた。 この人は私が化け物だと知ったらどうするだろうか。 今までそう思われることこそ当然だったと言うのに、今ではそう思われることがこんなにも恐ろしい。 声があれば、「違う、」とその場しのぎの嘘を吐いただろうか。 ほたりと落ちた涙にはっとしたように、幸村が身じろぎをする。思わずそちらを見てしまって、はぽかんと目を開いた。幸村は雨の晩と変わらない、いいやそれよりもずっと、優しい顔で、やはり口を真一文字に結んでいるのだ。まっすぐな眼差しはをまっすぐに見ている。 ふいに彼女は、思い至る。 虎若子と呼ばれるこの人は、いずれ甲斐の虎となるのだろう。ならばこの人もまた、すべてを知っても信玄公その人のように、をとして見てくれるのだろうか。 そんな期待を、持ったことなど一度もなかった。そのような希望が、あることすら知らずに生きてきた。 信玄の目が初めてを見たその時、彼女は知らず知らず、その残酷とも言える望みを与えられていたのだ。その稀有な眼と頭脳の持ち主が、信玄一人ではないのではないかという、信じられないようなあまやかな夢物語を。 ぱく、と一度、音のないの口が開いて、閉じた。 「…殿、」 名前を呼ばれたと思ったのだろうか、それを会話の切欠とみたのだろうか、幸村が静かに、音のある口を開いた。 「何があったのか、気にならないと言えば嘘になる。が、」 まっすぐな目だ。 「某は殿が話したくなるまで聞きませぬ。」 その目がに、考えもしなかった期待を持たせる。 例えば本当に、私が化け物でも。 殿と変わらず呼びかけて、例えばの腕が毛むくじゃらなら、太くて逞しいですなあ、だとか、例えばの爪が長く鎌のようだったら、刀も槍もいりませぬなあと、例えばの歯が鋭く恐ろしい牙であったとしても、ふむ丈夫な歯ですなぁ噛まないでくだされよと、の声が、不吉を齎す呪われた音でも、話せないならあるもないも同じことと、あるがままをそのままに、それでもなお笑い飛ばしてくれるだろうか? ゆきむらさま、と彼女の唇が音を伴わずに今度こそ彼の名を呼んだ。 W聞いて下さいますか。W震えながら手のひらになぞられた文字に、神妙に幸村が頷いた。くすぐったい。重苦しい雰囲気を少しほぐすように、小さく肩を竦めた幸村の弱り切ったかすかな笑顔は、ひどくさやかな少年のように見えた。 |