(ぐのおり)


 長い廊下を渡る最中に、突然景色が真っ暗になって視界がひっくり返ったのを、最初は理解できなかった。黄昏時に、もうすっかり暗い物置部屋だ。両腕を取られて、は床に縫いとめられている。
、」
 自分を押さえつけている男を確認して、は初めてその男のことを思い出した。どうして忘れていたものだろう。忘れられるはずのない、の罪そのものの形をした男。を誰より傷つけ、誰より傷つけられながら、化け物と罵るその口で、愛を乞う男だ。ようやっと彼女の頭が、状況を理解する。
 逃れようと暴れると、泣きだす直前のような、悲痛さをにじませた声がすぐ耳の横に振ってきて、は身の毛がよだつような感覚を味わった。男の息遣いが近い。縫いとめられた腕が悲鳴を上げている。の上に馬乗りになった男は、その目を暗闇に見開いていた。「、」最初は、その口から、どんな冷たい氷水のような言葉が飛び出すかと思った。
「…なぜだ、どうしてだ。」
 網にかかった獣のように、もがこうとしていたの体から力が抜ける。
 のしかかってくる男を初めて憐れだと思った。
 かつて自身がの心を傷つけ、そしてが彼を呪った。彼の言うその事実がある限り、が自分から離れていかないと信じているかのように。その鎹はあまりに悲しい…あまりにも虚しい。
 これは私とあなたの罪の形。男を見上げながらはそう感じた。
 どうしてこうなってしまっただろう。
「なぜだ。お前は、…お前は卑しい化物の子だろう。お前はいつだって自分の秘密を知らない者を恐れ、いつだってその目を避けて生きてきたじゃないか。どうしてだ、。なぜ。なぜ他の者と関わろうとする。お前が傷つくだけじゃあないか。お前はこんなところにいてはいけない。お前はこんなところにていいものじゃない。誰の目にも触れない、邸の、奥の、奥の、奥に仕舞い込まれておくべきものだ。どこへもいくな、。どこへも行くな。行けるはずがないのだから。いつまでも邸の奥に隠されて、そこにただ座っていればよいのだ…それだけでよいのだ。どこへも行くな。…そばにいてくれ、誰もその瞳に映すな。生涯自分だけを憐れめ。」
 狂おしげな眼差し。震えた指の腹が、それでもいとしそうにの額を撫でた。これは妄執だ。なんと狂おしい、愚かで悲しい妄執の糸だ。
「美しい私の怪物…私だけの。」
 それを断ち切りたいのに。かつてそのより合わさった悲色の糸の一端は自身がが紡いだ。この狂おしい愛憎の糸から解き放たれたい―――解き放ちたい。
 この人は哀れだ。
 初めての目から、己のため以外の涙が落ちた。
「閉じ込めておきたい…誰にも触れられないように。閉じ込めてやる…だれもお前が傷つけないように。何からも守ってやる、自分からも、お前自身からすらも。…、」
 囁くような、乞うような響き。
 あなたはあなたの言う怪物に何を乞うの。
 今までずっと恐れていたこの人が、ひどく小さく、弱々しくみえる。
 あわれな人。
 の目からもう一筋涙が伝った。この人にいったい、自分は何ができるだろう。この人を確かに、寂しい悲しい妄執の塊にしてしまったのは自分だと思った。男のくちびるが、その涙を拭うのを、どこか他人事のように感じる。
 ただただ悲しいばかりだった。
 男から逃れよう、圧倒的な力の差を知りながらそれでも彼を押し退けようとする細い腕が、諦めたように力を抜いたのを受け入れられたと思ったのだろうか。男が安堵したような、やはり狂ったような微笑を浮かべた。
「わかってくれたか、物語。そうだ、やはりお前には私しか―――」
 しかし男の笑みはみるみる凍りつく。決して音を紡ぐことのない美しいその唇が、確かに自分では名前を囁くのを見たのだ。
 それはなんという、絶望の過程。
 首筋の白い肌に触れようとしていた手が、凍えたように止まる。やがてそれは娘の衣服を、子が母親にするようにただ掴んで、何故だと慟哭をあげて男は彼女にただ縋りついた。
「許して―――許してくれ、許してくれ。お前には私だけ、私だけ、私だけだろう。お前を傷つけたのも、お前に傷つけられたのも、美しい、優しい、私だけの怪物、噫、どうか、どうか許してくれ、お前を私に与えてくれ、なぜ答えてくれない、何故だ、なぜ、なぜ、なぜ…