(しかがり) |
に縋りついたままで、男がその胸に顔を埋めてどれくらい経ったろうか。いつまでこうしているのだろう。ふいに体に圧し掛かる重みが消えて、がぼんやりと視線を天井から移すと、男がうっすらと、その顔に微笑を浮かべている。ただ子供のように泣いて縋って声を殺して叫んだ後で、男はすっかり、虚無だった。 「、」 睦事のように、その口がを呼んだ。そのうっとりとしたような口調と微笑とに、は先ほどとは違う寒気を覚える。その様子は、常軌を逸したように見えた。男の口端はなお持ち上がり、の血がさあっと冷えていく。 「共にゆこう。」 どこへ、と問う声が彼女にはなく、男は彼女の声なき声を聞きとることはできなかった。 自らが押し倒したことも忘れたように、さあ、と男がに手を差し伸べて立ち上がる。強い力に半ば引きずられるように立ち上がったの、引き倒され、縋りつかれたために乱れた襟元を丁寧に合わせてやりながら男はやはりぞっとするような微笑していた。「さあ、」と促す声が非現実だ。男の左手はの右手を牽き、その右手は刀の柄を握っていた。裸足のまま、男が庭へ下り、強い力で引きずられるも続く。ざりと足の下で砂が鳴った。どこへ。 どこへ? 男の足は熱に浮かされたように、ふらふらと庭を抜け、山へ向かおうとする。脚を踏みしめて抗おうとするを構わず引きずりながら、しかし男は能面のような顔で振り返った。その目玉にぽっかりと空いた暗闇。音のない悲鳴が、の口から迸るがやはりそれは無色透明で、誰かに聞かれることはなかった。 「、」 ちゃり、と刀の柄が鳴る。 「私と逝こう。」 今度こそその行く先を理解して、が真っ白に青褪める。 それを理解を得たとでも思ったのだろうか、うっすらと微笑し、男はを俵に担いだ。抵抗しようと動きかけた体が、しかしぎくりと強張る。トン、トン、と人間の体の一部ではありえない固く、薄いWなにかWがあやすような拍子を取りながらの背を軽く叩いたのだ。すぐに彼女は、それがなんであるかを理解する。それを勢いよく振り下ろすなり引くなりするだけで、の肉も骨も、生命すらも断ち切れるもの。 大人しくなったに、「良い子だ。」と囁きかけながら、男は蛇行しながらもしっかりと歩き出す。山道は暗く、担がれたままのには来た道もわからない。迷いのない足取りは、迷うことを恐れるどころか、考えてもいないからだ。急な傾斜を登りながら、男は笑い声すら立ててみせる。もはや男が、実利と言う名の従兄ではなく、ただ虚無に支配された怪物であることを彼女は悟る。 死ぬ。殺される。 じわと涙が浮かんでくる。それでも泣くまいと噛みしめた唇からは、血の味がした。いったいどこで間違えたろう。人になろうとしたこと?どれとも化け物に生まれてきたことが、そもそもの間違いだった? どれくらい経ったろうか。 ふいに男が足を止め、を巌の上に下ろした。 「、」 視界の端に、月光に照らされた青く冷たい輝きが映る。死の輝きだ。いやだと首を振り、後退さったの足元が、ザリ、と嫌な音を立てる。激しく流れる水の音。背後はもはや逃れられぬ断崖であると彼女が悟るよりも早く、男の腕が振りかぶられた。死の夢に取りつかれた、幽鬼そのものの顔。 「私もすぐ「殿!!!」 ハッとした男が刀を振り下ろすのと、赤い影が飛び出してくるのと、一体どちらが早かったのか。強い衝撃の後で、の体がふわりと浮いた。反転する視界と、落下する体だ。けれどどうしてか、おそろしくない。優しい誰かがを抱え込んでいた。水の音。そうして世界が暗転する。 |