(とらわこ)


 目を覚ました時、は力強い腕に川岸に押し上げられていた。水を吐き出しながらはっと振り返ると、重たげに体を引きずるようにして、幸村が川から上がってくる。水だけではない液体がその体からしたたっているのを暗闇の中で見てとって、は震えあがった。その体が、目の前でばったりと倒れる。どうして、とそのあたたかな手に縋りつきながら泣くようにしたに、ご無事か、と安心したように、掠れた声で幸村が言った。幸村の体は丸いすべすべとした小さな石の上に投げ出され、暗闇の中でも満身創痍なのが分かる。
「お助けする、」
 いつもいつでも殿が泣いておられる時はかならずやお助けする、そう言った。唐突に彼女は五つの頃、あの中庭での光景を思い出した。あの時の子犬のおのこ。
 彼であったかと見下ろした幸村の顔が、雲間から覗く月明かりにぼんやりと浮かび上がった。まるで初めて見る人のようにその面は優しく、しかしひどく弱弱しい。
殿とお話しても平気なのは、…」
 喋ってはいけない、首を振るにふ、と笑いかけて、幸村はまるで声を振り絞るようにした。
殿が、初めて、某のお助けしたおなごだからだ。」
 いつつもむっつも年上のおのこ相手に喧嘩をしたのも、あれが初めて、と場違いに幸村が笑う。
「お館様に褒められましてな。か弱きおなごをを助けるとはまっこと武士の鑑よと。」
 懐かしい、とその目が笑う。
殿は、覚えておられぬようでしたが、」
 では彼は、初めから全て知っていたのだろうか。
 件の子とはやし立てられて、中庭で泣いていた、半分化け物の娘を。
「其方は某の、初めての、誉れ、」
 あなたが教えた。守ることの、誇らしさを。
 だから。
「これからも、きっと、必ずお守りする。」
 幸村はきっと知らないだろう。あの時真実、自らがを助けたのだということを。が人をあやめるのを止めた。元気のいい勇敢な怒鳴り声に、遮られた怨嗟の言葉。あの時、見ず知らずの少年が助けたのは、虐められて泣いていた女の子ばかりではない。悪いことをせぬように、人を傷つけぬように、そうしたとは知らず、の心までも、守ってくれたのだ。
 あなただった。
 今度こそ堰を切って、の目から涙があふれだした。それを見て幸村はぎょっと目を見開く。透明な雫が、その顔にほたりほたりと落ちる。
 他の何にも変え難い、自らの手で、初めて守った美しいもの。
 だから。
「…なかないでくれ、」
 幸村の指先が慰めるようにそっとの眦に触れた。涙の粒がころりとはがれ落ちる。
「其方に泣かれると、某は…どうしていいかわからぬ。」
 半分目を瞑りながら幸村がやはりわらった。
 目を閉じてはいけない。
 はっとしてが幸村の手のひらを頬に押し付けると、あたたかかった。それは冷えた体に熱いくらいで、なのにどうしてこんなにも不安になるのか。「だいじょうぶ、」眠る前のひとりごとのような、どこか遠い響きで幸村が話す。
「すぐ、佐助が、迎え に、」
 瞳が閉じる。
 それはまるで光が失われるように、には思えた。