(おくやまにこえのする)


 月は中天に差し掛かり、周りの状況が見えるになるにつれ、の不安が大きくなった。晴れているのに細く小雨が降っている。細いながらも激しい川の流れは、どこをどう流れたのか、閉じかけた本の隙間のような崖と崖の間、わずかな浅瀬に二人はいるのだった。冷え始めた幸村の頬を擦りながら、どれくらいの時間が経過したのだろう。じっと岩のように幸村の傍らに蹲っていたは、はっと顔を上げた。
 ―――声が。
 それはどうやら遠く、しかし確かに、求める声であるのに違いない。漏れ聞こえる小さな音の中に、だめだ見つからない、という言葉を聞きとって、はさっと顔を青ざめさせた。
 もっと上の方かもしれない、焦ったような幾人かの声。
 行ってしまう、とそう思った。小雨は降り止まない。二人を探す声はだんだんと遠ざかる。このまま気がつかれなかったらと思うとぞっとした。このまま誰にも気がつかれなかったら?彼は死んでしまう。死んでしまう。
 …いやだ。
 いやだ。
「…ぅ、」
 しゃべってはいけないよ、、喋ってはいけない。
 言われずとも。そのためにのどを焼いた。火を呑んだ。今ではもう、枯れてほとんど音をなさぬその咽喉。それでもかすかに音を発することを彼女は知っていた。
 ぐったりと青ざめている人の顔を見る。目は閉じられて呼吸は苦しげだ。きっと骨が折れている。血もでている。おそらく斬られたろうし、さらにはあんな高いところから落ちたのだ、当たり前だ。なんかをかばって。
 噫、でもきっと、なんか、と言ったらこの人は怒るだろう。
 殿はWなんかWなどではござらぬ。決してござらぬ。殿は、おなごにござる。優しくてか弱くて柔らかい、おなごにござる。
 柔らかい色の瞳。どうかもう一度その目を開けてはくれまいか。榛色のあたたかなその太陽の眼差しに、私を写してはくれまいか。その瞳で、その声で、どうかもう一度、化物ではない人間の私を見ては、見つけ出してはくれまいか。
 幸村様幸村様幸村様、
 ヒュウと、ずいぶん長いこと使われていない咽喉が鳴った。
 遠ざかる声。行かないで。ここにいる。ここにいるのに。
 どうか見つけて。
 この人を死なせないで。
 娘の咽喉から、声にならない悲鳴がほとばしった。それは糸しこいしと番いを探して秋山に啼く鹿のような、高く掠れた、甘い獣の咽喉笛の響きだった。
 その声に呼ばれたように、ざわりと森の木々を揺らして谷底から風が吹く。風は悲鳴をのせて、木立の間を駆け抜けていった。耳敏い忍の耳がそれを捉える。どこか獣の声に似た、けれどもどこかもの寂しいその音。聞く者の心の輪郭をざわざわと撫でて通るような、かなしげで、けれどもどこか優しいその響き。いてもたってもいられないようなそんな心地を覚えさせる。
 呼ばれた気がしたと、あとになってその時そこにいたた者たちは言った。
 その音を聞いたら、どうしてかすぐに駆けつけてなくてはという気持ちになったのだと言う。泣いているように聞こえた、と。助けなくてはと思った。
 そして一拍おいて彼らは直感する。きっとその音が、自分たちを探す人のところへ導くと。