夜の廃ビルには影が三つ。真っ青な月明かり窓から一つ。影のひとつの真っ赤な鶏冠が、夜の波間に浮き沈みする。あとのふたつは完璧に、黒い深みに潜りきっている。
「夜が来たぞ、と。」
剥き出しのコンクリートの柱に背中を預け腕を組んだまま、赤い髪の男が言った。せっかくの上物のスーツを、だらしなく着崩している。
「猫たちの時間だね。…じゃあ犬は?」
その直ぐ傍らに片膝をついてスーツケースを漁っていた女が答えた。すらりとシルエットがひときわ細い。重たそうなスーツもまったく違和感なく着こなしている。
「んー、家に帰りたいぞ、と。」
「こら。レノ、。」
そこでやっと、腹這いでスコープを覗き込んだままの、長い髪をした男が口を開いた。眼下の往来に気を配ることを忘れずに、横目で二人を見やる。
「仕事中だ。」
「へいへいっと。」
双眼鏡で赤毛がぐるりと眼下の街を見下ろす。「おっ、美人がいるぞ、と。」ニヤニヤ笑いながらもその目は冷たい。
「申し訳ありません。」
女がふたりめの男にスーツケースから銀色の弾倉を取り出すと渡した。男は黙って受け取るとガシャリと一度装填を確認する。
「…。」
「…。」
「…。」
藍色の雲がじっとりと空を舐めてゆく。湿度が高く冷たい日だった。雪が降るかもしれない。
「…きた。」
唐突に赤頭が言った。
長髪の男はぐっと大きな狙撃銃に体重をかけ、女は壊れた壁から眼下をぐいと覗き込んだ。地上12階の高度から見た街のネオンは本当におもちゃのよう。ここから一歩踏み出せばきっとその革靴の底でパキャンと潰せるに違いがなかった。そこを歩く人もみな。
「どこだ?」
長髪の男が囁く。その目は鷹。
「ホテルアルデバランの角を出てくるぞ。」
「どこだ?」
「…あのマゼンタのネオンでは?」
「…ああ。」
すう、と男が息を詰めた。
女は少し背筋を伸ばして小さく見えるマゼンタの毒々しいきらめきを両目を眇めて見つめた。
赤頭はニヤニヤ笑いながら双眼鏡で街を見下ろす。
引き金は音もなく引かれる。空気を押し出す圧縮音。沈黙。眼下のざわめきは彼らにはあまりに遠い。神様に子羊の声が届かないのと同じこと。
長髪の男と女はさっさと銃を分解してスーツケースにしまった。赤頭の男はニヤニヤ笑いながら双眼鏡を懐にしまう。
そしてみっつの影は街に開けた壊れた壁に背を向ける。
「んー、やっぱり、夜は人間様の時間だな、と。」
「そう?」
「…早く行くぞ、もう5分も遅れている。(夜は月の時間だ。)」
「ほらな。犬たちは急いで家へ帰るんだぞ。猫は屋根の上でお楽しみの真っ最中で、人間様はあれよあれよの大騒ぎだってのにな。」
「夜は人間の時間?」
「ふざけるなよ、と。」
赤頭の男が女を振り返ってニヤリと笑う。
「夜は俺様たちの時間だぞ、と。」
「私たち、ねぇ?」
「猟犬の時間だぞ、と。」
「…今日はいつになく諧謔的だな、レノ。」
「まさか。ただ単に退屈な任務だっただけですよ、と。」
「…そういうな。」
ネクタイを軽く締め直して長髪の男を先頭に影たちは廃ビルをでる。ネオンの渦の中、白く鎮座します横に長い高級車。
ゆっくりと後部座席の窓が開く。黒いガラスから覗く白い金の髪。
「これが済んだら暖炉の前で好き勝手できるなぁ。」
赤頭がニヤニヤと女のつむじを見下ろすと、女は冷たい目でちらりと見返しただけだった。
「さっさと帰るよ、もう夜だもの。」
「ああ猫の時間だな、と。」
「梟の時間だよ。」