あの人は今もセピアの箱の中。美しい人。
ヴィンセントはどうするものかとしばらく立ち止まって――周囲に仲間の影はない――やはり放っておくのはまずいだろう、と紅いマントを揺らしてゆっくりと歩きだした。目の先で、若い女がうずくまっている。足首を押さえて横顔を少しせつなげに歪ませて。大通りをさけるように軒先に隠れるようにしていた。行き交う人々の視線が気になるのだろう。
その横顔に、ヴィンセントはデジャヴを覚えて心臓が縮こまるのを感じる。
―――ルクレツィア?
「大丈夫か?」
地面に落ちた影に、女が顔をあげる。鳶色の髪。やはり、似ている。
「あ、はい。」
ヴぃンセントがあまり顔をみないようにしゃがみこむと、女は躊躇いがちにうつむいた。ほそいくるぶしに添えられた指先は、ありのままの桜色をしていた。
「…捻ったのか。」
「ええ。」
「…少し待ってくれ。」
ヴィンセントを不思議そうに首を傾げる女をやはりあまり見ないように、手元を探る。
緑の小さな、子供の玩具のビー玉のような(しかし決してそんなかわいらしいものではない)、丸い結晶を探り当てると、それを義手の穴へと埋め込んだ。
「…失礼する。」
そおっと足首に冷たい手をかざすと、彼は意識を集中した。
緑の、光。穏やかな陽光。あの人の目の色だ。それをイメージする。彼女のほっそりとした優しい手のひら。それがこの目の前の女性の足首をそっと撫でるのをイメージする。あの指先が触れる。そこは癒えるはずだ。ルクレツィア、あの美しい人の優しい指先。それは何者をも癒すに違いない。
「…きれい。」
ヴィンセントははっとした。緑の淡い光に照らされた彼女の顔。ほほえむ目は髪の毛と同じ金に似た茶だ。目を丸くして、子供のように見入っている。
――違う。
これは彼女ではない。
光が、止んだ。
「立てるか?」
ヴィンセントは立ち上がった。
「え?あ、、はい。」
つられて反射的に立ち上がった彼女が目を見張る。
「…痛くない。」
呆然とつぶやかれた言葉はやっぱり子供みたいで、ヴィンセントは思わず少し口端だけでわらった。
「ケアルだ。…知らないか?…回復魔法。」
「初めてみました。」
うれしそうに彼女がほほえんで少し足踏みをした。踊るようなリズム。
その様子に少し目を細めながら、ヴィンセントは寒くもないのにマントに首を埋める。
この人はあの人ではない。あの人は今もセピアの箱の中、美しい人。目の前の女はなんとも黄昏色をして若々しく色に満ちていた。
「ありがとうございました。あの、お名前をお伺いしても?」
「なまえ…。」
ヴィンセントは曖昧にほほえんだ。
なんと言えばいいかわからなかった。ただその顔で、笑顔で、ヴィンセント、と呼ばれるのはあまりにも―――。
「あの?」
意識を戻すと、彼女の顔がずっとちかくにあった。
「あ、」
間抜けな声が出た。彼女がニコッと、目尻を下げてわらう。
「ありがとうございました。いつかお礼をさせてくださいね、紅いマントのお兄さん。」
「…ああ。」
間抜けな声だ、もう一度彼はそう思った。。
彼女はやっぱりうれしそうにほほえんで、高いヒールをカタカタ言わせながら踊るような足取りで通りの煌びやかな光の中に紛れていった。
鳶色の髪、懐かしく慕わしいセピア。遠ざかる。そして思い出だけが残り―――。
「名前も聞かなかった。」
私も言わなかったけれど。ヴィンセントのひとりごとが、軒下に少し、やわらかく転がった。
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