「全身黒づくめで赤いボロボロのマントにボサボサの長い黒髪、陰鬱な死んだ魚のような目、ねぇ…。」 なーんかどっかで聞いたような気がするぞ、と。真っ赤な鶏冠頭の男が明後日の方向を見ながら呟く。 「誰も死んだ魚のようなとは言ってません。」 トン、と書類を揃えてから脇にキチンと置いて、女はすっと美しく背筋を伸ばした。 時刻は3時半。受付嬢の暇な時間だ。大理石の正面玄関の真ん中にキチンと座った彼女と、だらしなく高級な黒いスーツを着崩してカウンターに肘をつく男。女の隣に座っているのは、本来ならばそこにいるべき特別な青い制服にえんじのリボンを結んだ彼女の同僚ではない。プラチナブロンドを耳の下辺りで切りそろえた若い女―彼女もまた男と同じ真っ黒なスーツを着ている―が、頬杖をついて暇そうにしていた。 「えー、でもすてきですよ!偶然足を捻って困ってた所を声かけてくれて?しかもケアルで名乗らず紳士!いいなー!さん惚れました?好きになった?」 ニヒ、と楽しそうに笑いながら金髪の女が、もうひとりの女のほうを向く。男に対してよりは若干愛想を崩して、女は鳶色のやわらかそうな髪を耳にかけ直した。耳の形がきれいだ。 「さあ?」 いたずらっぽい内緒話のような返事に、女は「えー!教えて下さいよぅ!」と口を尖らせる。 「おいおいおい、ちゃん、俺という男がありながら不審者相手にそりゃないぜ?と。」 ニヤニヤ笑って身を乗り出す男に、彼女は慣れたようなあきれた一瞥を投げてよこすと受話器をとった。その桜色の爪先が、内線の0を押そうとしたことに、男も女もぎょっとして、男が慌てて通話を切り、女が受話器の口を塞ぐ。 「あ、ツォンさんですか?こちらにお宅の部下がふたり…、」 「!」 「さんっ!」 ふたりに同時に必死な目で見られて、ちゃっかり阻止してるくせに、と女が受話器を下げる。 「あーっもうヒヤヒヤしたっ!」 「ほんと冗談きついぞ、と。」 本気で冷や汗をかいている黒スーツふたりに対して、女は涼しい顔だ。おもしろそうにほほえんですらいる。 「そんなに冷や汗かくくらいなら仕事に戻りなさい。」 それに対して、ふたりはええーと声を揃えてみせる。 「だってせっかくひっさしぶりにさんのそんなときめきな話がでたのにっ!」 「不審者にときめくとは末期だな、と。」 「別にときめいてません。」 「ええー!」 「不審者呼ばわりは止めなさい。良い人よ?見た目は相当パンクだけど、紳士で。」 それにまた、ふたりが別の意味でええー!と声を上げる。彼女はやはり涼しげに、この時間帯必ずかかってくるいたずら電話に愛想良く「お客様?まったく毎日お暇ですね?」とにこやかに切り返している。 「ね、結局のところどうなんでしょうね?先輩!」 「冗談に決まってるぞ、と。」 「ええー!そうなんですかぁ!」 「こいつが面食いなの知ってるだろ、と。」 スーツのふたりがひそひそと顔を寄せ合う隣で、ついに彼女がにっこりとほほえんだ。 「肋ランチ?知るかヴォケ。」 カチャリと笑顔のまま受話器が置かれ、その素晴らしい表情のまま、彼女がふたりの方を向く。ヒィ!と思わず、社内外で畏怖の対象である黒スーツが声を上げるほどにはその笑顔は美しすぎた。 「あら、」 彼女はなおほほえむ。肋ランチ?それもどっかで聞き覚えがあるぞ、と、と呟く男には目もくれない。 「とってもハンサムだったわよ?疲れてくたびれた顔してたけど。」 にっこり今度は本当にきれいにほほえんで、女は椅子ごと後ろを向いた。いたずら電話の回数をひとつ足すためだ。青いペンでノートに一と線を引く。これで"正"の字が五つ並んだことになる。 暇人め、と呟く彼女のその背中では黒スーツ二人がえええええ!と声を上げている。そんな二人のことはまったく意に介さずに、また会えるかしら、と女は少し優しい気持ちで考えている。 緑の光に浮かんだ顔はとてもくたびれていて、優しそうだった。わがまま放題な恋人に、泣かされでもしたのかしら。なんだか泣き疲れたような、妙に疲弊して吹っ切れたような清々しさが彼にはあった。好みだけど趣味じゃない、と彼女は考える。でも、と考えてそこで彼女は振り返った。 そろそろ来る頃かなぁと思ったのだ。この二人を迎えに。 思ったとおり、エレベータが開いて黒いスーツが下りてくる。長い黒髪は束ねられていて、まっすぐ伸びた背筋が美しい。 エレベータに背を向けたままのふたりは、まだ彼の登場に気がついていない。受付の女は少し目元だけで微笑みかけると、男は几帳面に少し首を傾けた。彼女の好みで、趣味に合う男。 ああ、少しあの人に似ているかもしれない。女は考えて、また置いてきぼりにしていた『でも』からあの赤マントのことを考え直す。でももしまたあったら、あの青白くていかにも不幸せですって言ってた辛気くさい顔、どうにかするくらいいいんじゃないかしら。お礼を言ってお食事に誘って(貧乏そうだったわ。)美味しいものたくさん食べさせて(血色も悪かったし、)、一回くらい笑わせてやろう、あのしみったれた顔見ているこっちが滅入ってしまうもの。彼女の話を聞いてやってもいい。あの男からは色濃く女の気配がした。 あの目の中にはたったひとりなのだろう、そんな優しい目をしていた。相手はなんて幸せな女性だろう、彼が幸せなのかどうかはともかくとして。 そこまで考えて彼女は目の前でまだぎゃあぎゃあ騒いでいる二人の黒スーツににっこり微笑みかけた。 「ね、振り返ってみたら面白いものが見られるかもしれないわよ?」 |
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パンドラ | |
20071216 |