夢の中で彼女の目が覚めたのは、暗くて冷たい真っ暗闇のただなかのこと。自らの影も形すらも見えぬ、底のない闇のなか。音はなく声すらもなく、目を開いているのかとじているのかもわからぬ、本当の闇の底。誰かを呼ぼうと開いた口が本当にあるのかも知れず、音すら吸い込む闇のなか。それでも彼女は、その暗闇を"おそろしい"と、感じるそのことだけで 自らの存在をなんとか自覚していた。
 暗闇の中では感触もない。ただひやりとした冷たさと、それの与える恐怖とだけが、彼女がここにいることを告げている。
 朝目が冷めて、噫夢でよかったと安堵のため息を吐いたその晩の夢も、やはり暗闇に閉ざされていた。
 深海から生還するような深呼吸で目覚める朝が三日続いた。
 四日目の晩、初めて闇のなかに光がさした。どこか遠くの近くから、小さく声が漏れてくる。
「友情に、縋って…こんなことを言うのは、間違っているし…友に不幸を齎すと知っていて…こんなことを頼むのは…、」
 反射的に彼女は思った。
 ―――噫この声を持つ子供を知っている。
 どこか愛しいような親しみが胸に滲むのを、彼女は我がことながら、はてと首を傾げて反芻した。なぜそう当たり前に思うのか、とんと心当たりがない。けれども長年連れ添った家族に抱くような、しかしそれよりずっとあまやかなこの心地はなにかしら。首をひねり続ける間に、弱々しい声は続く。最期の暇を告げる前に、懸命に何か、まだ残しておきたい言葉があるかのように。
 死んでしまうの?
 先ほどとは違う方向に首を傾げても、答えてくれるものはない。かわいい子供の声だけ続き、誰かがそれに、うん、うん、と相槌を打っている。
 その小さいけれどひたむきな声に、彼女はぱっと首をまっすぐになおした。なんとすてきな声だろうか!
 その反射的な感想は、しかし震えるほどの感動を持って彼女を打った。もうずいぶん長い間、暗闇にいたのかいなかったのかすらわからぬ彼女の耳が、久しぶりに聞く音。その両方がひどく好ましく、一方は聞き慣れたかあいらしいもの、もう一方は、まるで初めて聞くような、感慨深い清らかな音。一言聞いただけでわかる、どんなにかその声が、ぴんとはりつめて美しく人々に響くか。彼女は思わずうっとりとして、それから強く、その声の主を見たいと思った。

「俺の右手の手袋を…外してくれ…。」

 斯くして彼女の、暗闇は途切れる。
 そうして新たに彼女の目に映った暗闇は、ぬばたまの漆黒、煌めく星々の光を孕んだ美しく凛々しい夜空の瞳と髪の色。
「ティル…右手を。」
 ティル。その名が彼女のあたまに、しっかりと刻まれる。ティル。歌うように繰り返して、彼女はその光り輝くような漆黒にもう一度感嘆のため息を吐く。少年の光に照らされて、かわいい声の主も見える。日なたの光の色をした髪、青い目は弱り切って生気がなく、しかしその奥に、必死な強い願いが見える。震える腕が伸ばされて、それをティルと呼ばれた少年が取った。
 そうして夢の中で、彼女は自らが美しく不吉な、目に見えぬ一振りの大鎌であることを知る。
 親しみ深い子供の手から、美しい少年の手へ、彼女が引き渡される。途端に世界の輪郭が、くっきりと明るく、彼女の目に見えてくる。ティル。澄み渡った月と星の、夜空そのものの少年。その右手に手渡されて彼女は、夢の中で初めてにっこりとわらった。
 それがさいしょの夜のこと。



20121115