時を早送るように、夢の中で物語は進んだ。彼女はいつも、誰にも知られることなくティルという少年の傍らに寄り添っていた。一目見たとき齎された予感を裏切ることなく、少年は彼女にますます美しかった。友の手から“彼女”を託されたティルは、都を逃れて、南へ、南へと下った。彼女はその旅路の中で、おぼろげにこの“世界”のことを把握していった。 ここは夢の中の、どこか遠い世界。 彼女が目覚める現実とは随分違うようで、似たところも多くみられる不思議な世界だった。ここは世界のどこかにある“帝国”の領土で、ティルは帝国の将軍の息子、彼女にも何故だか不思議に懐かしく親しみ深いティルの“親友”テッドが、隠していた秘密のために宮廷魔術師に追われ害され、そうして秘密を守ることが困難になった。ティルはテッドから、その秘密である“彼女”を託され時の濁流に押し出されるように帝国を出奔した。 ティルの横にふよふよと浮遊しながら、彼女は状況を頭の中で並べ直している。 彼女の姿どころか声すらも、誰にも見えず、聞こえないから、暗闇から逃れてもなお、彼女は孤独だった。ティルを通してだけ、世界のすべてに触れることができた。ティルの隣に立って、同じ目線で(二人の背丈はよく似ていた)世界を見、そうしてその右手に左手を重ねると、なんとなく、ティルが触れたものの形やぬくもりが、感じられるような気がした。 ていこくはわるいくに。 少なくとも今は、と頭の中で唱え直して、彼女は凛とティルの(自分の)前に立つオデッサと言う女性を見る。利発そうな目をして、しかしその中に、苛烈な光が燃えているのが見える。誰かにその小さな火を移して回る、種火のような女性だった。彼女の目には、オデッサの手から小さな火種がティルに手渡される様が見えるような気がした。彼女はオデッサのことも、好ましいと思った。あたたかで激しいその小さな炎を、惜しむことなく人々に分け与えるオデッサの火は、もうあとどれだけ残っているのだろう。例え最後に残ったぬくもりであっても、この女性は誰かにあげてしまうんだろうと彼女は思った。美しい人だった。そうしてますます、好ましく思った。なぜかみていておなかがすいた。 ティルは利口で、正しく、優しい少年だった。帝国を背負って立つ次代の柱たれと、将軍家の一人息子として育てられたためだろうか、それとも彼の生来の性質だろうか。自分の感情や損得を外に置いて、公正に物事を見る目を持っていた。やるべきことをやるだけの意志の強さを持っていた。解放軍もいいかもね、と不敵にわらったクレオに、「ああ。」と同じように笑い返した彼は、決して捨て鉢になっていたわけではなかった。彼の理性が、彼の正義が、彼の優しさが、彼の心が、確かに彼をただしいやさしい、けれども彼に過酷な道に駆り立てていた。ティルの背筋はいつも伸びていた。その夜の色の瞳は、誰もが満点の夜空を見上げて思わず見惚れるように、常に月と星との輝きを孕んで人を惹きつけた。魅力という言葉で収まらぬような、引力を持った少年。 父親を、帝国を、裏切ることに迷っていてすらも、彼の目はまっすぐに前だけを見据えていた。それがどんなに、頼もしく見えるかも知らず、人の話を聞く時、まっすぐにそのまなざしを注がれると、どんなにか心が震えるかも知らずに。 彼女はますます、ティルのことが好きになった。 誰にも見えず、触れないことはもはや彼女は徹頭徹尾諦めていた。だからほんの小さな不満と言えば、ティルは極たまにしか、親友から譲り受けた“彼女”を使わないことだった。 “彼女”がなんであるのか、ティルはほとんど知らなかった。この世界を形作る紋章という要素の中でも、ひときわ特別な一片であるということ以外を知らなかった。けれども右手の甲に浮かんだ文様はどこか禍々しく、不吉で、親友の隠し続けたそれを、人の目に晒すことを避けた。それでも時折、どうしようもないとき、彼女を彼は使った。何度か使われることで、彼女は自らが、この夢の世界でどういった存在であるかを知った。魔法のような、夢から醒めた現実にはない力。その純粋な力の結晶が、彼女であり、この世界の人々が体に宿す“紋章”なのだった。彼女は自らが、強い力を持つ紋章であることを知った。ティルの障害となるもの、襲ってくる恐ろしい魔物を、彼女はティルの前から消し去ってしまうことができた。初めてティルに“使われた”時、彼女はそれは驚いた。右手を前に掲げたティルの、語りかける声が彼女のこころに直接届いた。次の瞬間、彼女の存在が、心臓の辺りから大きく膨張して弾けた。ストンと肉体の中に、再び彼女自身が戻ってきたときには、見たこともない魔物は忽然と姿を消していた。 しかし彼女は、今ではもう気が付いている。 魔物はどこにも消えていないこと。 ここにいる。 彼女は誰にも見えないまま、自らの心臓の少し下、胃のあたりを抑える。自分の内側を表に広げると、そこから飛び出した自分自身が、ティルの望んだ対象をぱくりと呑み込んで、食べてしまうのだ。そうしてまた、体に呑みこんだものごと帰って来る。 夢の中で、彼女はものに触ることができないから、空腹を覚えても何かを食べることができない。喉が渇いても、水は彼女の手をすり抜けて流れていく。 けれど自分の内側の暗闇を、外に広げるその時だけ、彼女はありとあらゆるものに干渉し、そうして触れ、食べることができた。おいしいおいしくない以前に味も食べたという実感もなく、大して空腹は満たされなかったけれど、それでも少しは気が紛れたし、なによりティルを助けることができて、彼女はうれしかった。 夢の中で、彼女はティルが自分を使ってくれる時を心待ちにしていた。誰と語り合うことも触れ合うこともない彼女には、ティルを通して世界を見ることと食べること以外に、楽しみはひとつもなかった。ティルと一緒に冒険をしている気分になっているとき、彼女は無邪気にその旅路を楽しみ、旅先で見かける圧政に苦しむ人々の姿には素直に怒りを覚え、不測の事態には慌てて、ほとんどティルに寄り添っている。けれども、夜、夜だ。夢の中にも夜は来る。ティルが眠ってしまう夜。彼女はどうしたって退屈で、孤独のために死んでしまいそうな気がした。そうして喉が渇いて、お腹が空く。 星を見上げながら、オデッサが言葉を紡いでいる。 「でも、あなたのような…人をひきつける目をした人は…」 ああ、オデッサ、あなたもそう思う? 珍しくティルが長く起きている夜、彼女は思わずうれしくなって、ついとティルの側を離れてオデッサの横に回った。 ねえ、オデッサ。あなたもそう思う?ティルの目、とても、とてもきれい。こんな人他にはいない。たくさんの人をひきつけて、たくさんの人の頭上に、燦然と輝く夜空の人。燃える星の焔を、その胸に抱いている。 |
20121118 |