「オデッサ!」
 大勢の人々が、顔を青褪めさせる中で、彼女はその輪から外れてことりと首を傾げていた。
 オデッサは冷たい地面に横たわり、ティルに上半身を抱えあげられている。その胸を裂いて、熱い血潮が噴き出している。誰の目にも明らかだった。
 死んでしまうの、オデッサ。
 オデッサが何かを話している。最後の力を振り絞って、その耳飾りを外して、震えるその指先ごとティルの手が握った。いいな、と思ったのはほんの一瞬で、彼女は悲しく眉を寄せる。オデッサのことが好ましかった。チラとかつてよぎった予感と同じように、オデッサはまさに、最後の火を子供のために使い切り、そうして残ったぬくもりすらも、ティルに託そうとしている。
 うん、うん、と初めてティルの声を聞いたその時と同じように、彼が頷く後姿を彼女は見ていた。きっと射抜くように真摯な眼差しで、彼はオデッサを見つめているだろう。
「私の…体を…その、水の流れに…」
 優しい声だ。こんな時すら、オデッサの声音は優しかった。本当なら、花と光に囲まれて、幸せに暮らすお嬢様だったろうオデッサ。恋人を失って、女性の身で、帝国と言う強大なものとの戦いを選んだオデッサ。正しいことは正しいと、間違ったことは間違いだと、声を上げたオデッサ。小さな篝火の人。
 ―――死んでしまうの?
 彼女の目の端からころりと涙が落ちた。
 死にたくなんかないくせに。ねえオデッサ、フリックさんになんて言うの。ねえオデッサ、ティルになんて言わせるつもりなの。ねえオデッサ、知ってるよ、いつも、自分がリーダーの器には相応しくないと思い悩んでいたことも、それでも大勢の期待に応えようと、重たい重たい荷物を背負って、それでも一生懸命だったこと。いかないでオデッサ。ティルにぜんぶ託して、それで満足して行ってしまうの?そんなのずるい、ねえ、そんなのずるいよオデッサ。
「私の見ることが、できなかった…」
 いかないで。
「オデッサ、」
 彼女の涙声は、もちろん誰にも聞こえないはずだった。
「自由な、世界を……?」
 けれども確かにその時、ティルの肩越しに、オデッサの青い目が、彼女を捉えた。不思議そうに少しだけ開かれた目が、優しく撓んだ。何故泣くの、とでも親しげに尋ねるように。
 震える口端が戦慄いて、けれどもそれきりだ。ティルがガクリと顔を落とす。グレミオが胸元を握りしめて顔を歪めた。ビクトールが拳を握りしめている。
 ―――オデッサ!
 彼女はその時初めて、夢の中で泣き声を上げた。
 その泣き声は透明で、彼女の耳にすら聞こえなかった。天に向かってぽっかりと開かれた彼女の口から、悲鳴の代わりにまっくらな暗闇が飛び出してきた。彼女の内側。かつて夢の中で彼女自身が閉ざされていたその内側の闇。飛び出した暗闇は、誰にも気が付かれることなくオデッサを包んだ。ティルの意志とは関係なしに、自らが動けることを彼女は初めて知る。
 どうすればいいか、わかる。
 知っている。
 オデッサはどこか満足そうにすら見える顔で、目を閉じている。暗闇はそおっと、その人を包んだ。



 ぱくり。
 初めて夢の中で、おいしいと彼女は思った。
 内側を外に放出して、からっぽなはずの彼女の目の端から、もう一粒涙がこぼれた。



20121118