おなかがすいたなあ、とふとすると考えている自分に、彼女は最近気が付いている。もちろんそれは夢の中に限定した話で、夢の中では、彼女はどれだけ食べてもいつも満たされることがなかった。もちろん彼女を“多用”しないティルの側にいるのだからなおさらかもしれないが、それでも彼女は、もちろん彼の側を離れるなんて考えもしなかった。授業の最中ですら、ぼうっと窓の外を眺めながら、今日もあの夢の続きを見るだろうかと彼女はよく考えるようになった。
 そうしてそんなとき、なんとなく、胃袋が空っぽになるような気がする。
 今日も早いのねぇと呆れる母親におやすみを言って、目蓋を閉じる。暗転。そうして暗闇を抜ければ、少年はいた。
 ティルの周りに人々は集い、いつの間にか、同じ志を掲げている。その誰もが、きらきらと輝いて彼女には見えた。ティルの周りには常に誰かがいて、いつでも彼を信頼し、そうして彼に信頼されていた。絆、というものの形が、あるならきっとこの城とここに暮らす人々の形だろうと、彼女はよく考えた。石造りの城の窓辺は、いつの間にか彼女の定位置だった。ティルから少し離れて、高い窓の上へ重力など関係ないように飛行して、彼女はよくそこに腰かけて人々を眺めた。笑う人、怒る人、静かな人、騒がしい人。さまざまの人が、ティルというたったひとりの少年を鎹にして繋がっていた。全員がオデッサの言い遺した「自由な世界」だけを求めて闘っているのではなかった。思惑もあり、野心もあった。偶然の利害の一致も。それでも誰もが、ティルを中心に、ひとつの大きな流動体の形をして、生きて、動いている。時代の潮の流れが、目に見えるようだ。潮流の中、この城は舟。ティルを先導として、みなが梶を取り、櫂を漕ぎ、地図を読み、明るい方を目指している。
 いいな、と歌うように囁く時、どうしても彼女は孤独だった。いいな、とそう囁く時、彼女は空腹だった。
 誰よりティルに寄り添っていても、それをティルは知りもしない。孤独な彼女には、同じように孤独な人間がよくわかった。例えば石版の部屋の少年だ。例えば紋章の少女だ。そうして一番孤独なのは、強大な引力の中心にいる、ティル、美しい少年その人自身だということ、多分彼女は誰より知っていた。
 私は、君が、いとおしいよ。
 そう囁きかける時、いつもどうしてか胸が痛んだ。
 君のためならなんだってできるよ。君の側に、いつもいるよ。君が知らなくても。君が悲しいとき、辛い時も、いつも、ここにいる。そこにいる。その右の手の甲の上に。

「扉を開けろ、グレミオ!!」
 扉を叩き続けるティルの、右の拳に背後から右手をそっと重ねた。
 もちろん誰にも、そんなこと知られはしない。
 誰も彼女のこと、気づきはしない。
 その紋章が、彼女であるということ、知りはしない。
 彼女自身だけが知っている。
 血を吐くように、叫んでいる。ティル。扉の向こうの優しい声は、ずいぶん、とても、ずるいと思う。ぐうぐうとどん欲に、胃袋が鳴る。おなかがすいたの。そうしてその奥底で、かつてそこに収めた美しいあの人が、目を覚ます。青い目を開いて。ただ、ひとこと。
 ―――彼も?
 微かに微笑んだ口をパカリと、天に向かって彼女は開いた。
 もちろん誰も、気づきはしない。みんな扉の向こうでだんだんと掠れて、消えゆく声をとどめようと必死に声を張り上げているからだ。坊ちゃん、どうぞ、最後まで信じることを貫いて下さい。そう告げる声が遠くなる。扉一枚隔ててそこにいるのに、遠ざかる。ティルは張り裂けそうに目を見開いたまま、無茶苦茶に名前を呼んで、それからその言葉を一言一句聞き逃すまいと、拳を扉に叩きつけている。
 ティル、だいじょうぶだからね。
 一度彼女の指先が、彼の右手の甲を優しく撫でた。グレミオの意志のように固く、ぴったりと閉ざされた扉を、暗闇がするりと抜けて通る。
 だいじょうぶだからね、ティル。
 ―――だいじょうぶですからね、ぼっちゃん。
 ああ、君も、そうだね、
「グレミオ。」

















 聞いたことのない声に呼ばれた気がして、彼は失ったはずの目蓋をぱちりと開いた。
 そこは光もない真っ暗な暗闇で、ああここが死後の世界かと彼は思った。
 人は死んだら、こんな真っ暗なところへいくのだな。
 自分の指先すらも見えない闇の中だ。いいや、自分の体は人喰い胞子にくわれたのだから、体がなくて当然か。ならば自分は、ひょっとして、今、魂、というやつなのだろうか。ああ、それならこんな暗くて何もないところにいないで、ちょっとでも坊ちゃんの近くへ飛んでいけたらいいのに!
 きっと悲しんでいるだろうから、慰めなくてはならないのになと彼は足踏みをして、足があることに気が付く。
 ここはどこだろう。
「…ここは?」
 疑問を口にすると音になった。
 暗闇に声はうろんに転がって、それきりしんとする。耳が痛くなるほど静か。ああけれど、耳なんてほんとうについているのだろうか。思考の底に沈みそうになった彼の意識を、かすかな声が掬い上げた。
「わたしのおなかのなか。」
 ハッと顔を上げると、見たことのない少女が暗闇の中、立っていた。
 暗闇に輪郭を浸食されることもなく、はっきりとその形を保っていた。ティルと同じくらいの年の頃だ、背丈がよく似ているなと思って、グレミオは思わず泣きそうになった。ああ、わたしの、わたしの…。
 少女は少年によくにた黒い色の眼差しを細めて、少しわらったようだった。
 そうするとずいぶん、人懐っこく見えた。見慣れない服装。ひだの寄った黒いスカートは膝の辺りまでで、そこから細い足が二本。黒い靴下。黒い靴はぴかぴかしていて、黒い髪、白い上着にも黒い大きな襟とリボンがついている。まじまじと見つめられて、少女は少し、こまったように笑ってみせる。
「…あなたは誰です?」
「グレミオは、ティルのこと、すきね。」
「坊ちゃんを知っているんですか?」
 こくりと少女が首を縦に動かす。そういえば自分の名前も知っているようだと首を傾げて、しかしやはり、少女に見覚えはなかった。
「あなたは、」
「私も。」
 少女が微笑む。似ていないのに、どうしてかしら、彼の大事な坊ちゃんに、その微笑は似ている気がする。
「私もティルのこと、すき。すきよ、とてもすき。私以外そのこと、だぁれも知らないけれど、すきよ。たいせつなの。…いとおしい。」
 熱烈な、しかし母親のような、聖女のような、女の匂いがしないその告白に、彼は瞠目する。嫌な気分はしなかった。ただひたむきに、少女がそう言っているとわかったからだ。
「ティルも、きっと、グレミオのこと、すきよ。だから、グレミオが、あんなことして、とても、かなしい。つらい。くるしい。グレミオが死んで、自分を守ったこと、わかっていても、つらい。…グレミオがいなくて、とてもかなしんでる。」
 なぜそんな風に見てきたように、すべてを知っているのだろう。
 これは天使とか、そういうものだろうかと思った。死んでしまった自分の前世での罪を、量っているのだろうか。あんな別れ方しかできなかった自分を、この天使は責めるだろうか?けれども、けれどもあの時あの瞬間、最良の判断なはずだった。あれ以外に、彼らが、彼の大切な坊ちゃんが助かる方法は、
「だからグレミオもここにいて。」
 私と一緒に、ティルの側に。
 おさないような、喋り方で、とぎれとぎれの、少しかすれたあわい声。聞いているとどこかさみしくなるような、優しい声だ。
 それが彼の思考を遮った。
 ここ。
 ―――わたしのおなかのなか。
 最初に答えた声が不意に脳裏によみがえる。同じ声だった。最後の最後に、自分を呼ぶティルの声に被さって聞こえたのも。
 ああ、ではここは。ここは?
「何故知っているんです、すべてを。」
「いつも一緒にいたよ。みんな知らなくても。いつも一緒にいた。いつも、みんなのこと、見てたよ。」
 囁くような声。
「…たとえ不吉と恐れられても…呪いの証と疎まれても。」
 ヒタリと暗闇そのものの、眼差しがグレミオを見上げていた。
「例えティルが私のこと、憎んでいても。それでも、私は、」
 そばにいるよ、いつも、いつも、どこででも、いつだって。きっといつまでも。ときがゆるすかぎり。
 あなたは、とグレミオの口端が戦慄く。
「ひとりぼっちはさみしいもの。」
 暗闇そのものの少女が、まっすぐな瞳で、そこに立っている。



20121118