ティル、泣いてる。
 彼女は呆然と、その傍らに立ち尽くしていた。ティルが泣いている。決して誰かの前で涙を見せようとしなかった少年がだ。泣いている。父さん、とその口が小さく戦慄いた。彼の涙はひどく静かで、色も形もない。彼女以外の誰にも見えていないかもしれない。けれでも確かに、見開かれた目から、彼は透明な滴を流していた。
 きっとティルが成長したら、こんな面差しになるんだろう。そう思わせる顔立ちをした彼の父親は、どこか満足したような、穏やかな顔で呼吸を止めている。
 その最後の微笑は、泣くなよ、と言ったように見えた。
 がんばれよ、と言ったその声は、ただの父親の声だった。
「…ティル、」
 クレオが叫んでいる。パーンが地面に突っ伏している。若い二人の青年騎士が、同じようにテオ様と名前を呼んで泣いていた。ティルだけがじっと、目を見開いて俯き、父親を抱えている。その左肩をビクトールの力強く逞しい手のひらが、ただ何も言わずぐっと掴んだ。
 うらやましいと、心底思った。
 ああどうして、私には彼を抱きしめる腕がないだろう。どうして私には、彼の本当の、色も形もある涙を、誰からも隠してやれる胸がないのだろう。どうして私の声は、彼に聴こえないのだろう。
 どうしてこの少年ばかり、失うのだろう。
 ねえ、どうして誰も、彼の名を呼んでやらない。
 どうして失われた男の、名前ばかりを呼んで、ねえどうして、誰も抱きしめてやらない。どうして誰も、ああ、誰も、誰も!
 いちばんかなしいのも、いちばんつらいのも!泣きたいのも!
 ビクトールの手の上に両手を重ねた。ずいぶん大きな手のひらで、彼女の両手が優に余った。ねえどうして。この手のひらで、彼を撫でてやってほしかった。ティルのまるい頭を、父親が昔よくそうしたように。そうすればきっと、ティルは声を上げて、その喉を振り絞って泣けただろう。強く肩を掴むての力は頼もしく、優しく、けれどもティルの涙を押し留めもする。
 ねえどうして。
 テオ様と千々に乱れたクレオの声が耳に痛い。
 ああけれど、一番痛いのは彼だ。
「ティル、」
 届かないと知っていたから、今までこうして、語りかけることはすくなかった。聞こえないと知っているから、心の中のひとりごと。ティル、今日は、新しい人にあったねえ。ティル、今日は、危なかったねえ。ティル、今日はね、私、おなかがすかなかったよ、このまま誰も食べずに、いられるのかな。
 ねえティル。
「ティル!」
 彼がぎゅっと目を瞑った。
 彼女の口から、内側の闇が飛び出した。弾けるような勢いで、それはあんまり光のようなスピードで、実際輝いてすらいた。もはや失われてしまったその存在。どこか遠いところへ沈んでいこうとしているその存在に向かって、内側の彼女がまっすぐに走った。暗闇の先が、その額に触れる。
 わたしのむすこ。
 言葉がそこから溢れだした。
 おまえを、ほんとうに、ほこりに――――
 暖かな陽光のような思いばかりが、まっすぐに彼女の内側で光った。ああ、あなたも、あなたも、誰も敵わぬほどに、深く、ティルを?暗闇そのものの、形のない、内側の彼女が、泣き声をあげる。
 ストンの体の中に納まった彼女は、お腹を押さえて大声で天に向かって今度こそ音のある泣き声を上げた。誰にも聞こえない声で、しかしけれども彼女の鼓膜を内側からも打った。ここにいる、ここにいるよ。けれどももう、オデッサも、グレミオも、テオも、彼女も、誰も、誰もティルに触れない、語りかけることができない、だきしめることも、なぐさめることも、涙をぬぐうなんてなおのこと、なにもできやしないのだ。
 なのにどうしてここにいる。それなのにどうしてここにいる。
 ここにいる意味なんてありはしないのに。なにもできやしないなら、誰にも見えず、聞こえないなら、いないのと同じだ。ここにいるのに。君の涙も、悲しみも、すべて、こんなに近くで見ているのに。
「ティル、ティル、」
 なぜ誰も、彼のために泣かない。
 重たい小雨が降っていたが、彼女の鳴く声が空を裂いたように、切れ間から光が降ってきた。
 もう空っぽの、父親の顔をやわらかい洗い立ての光が照らしている。迷子の子供がするように、ティルのもう随分と大人に近い造りの、すらりとした指先が、テオのマントを握りしめている。
 ああもうそこに、彼はいないのに。
 泣いて縋って謝りたいような気が、ふいにこみ上げた。その衝動のまま、ティルに縋りつこうとして、しかし彼女の体は彼をすり抜けてそのまま地面にもつれ込んだ。その衝撃も、痛みすらもない。嗚咽が零れた。喉の奥が熱い。こうしてここにいるのに、どうして誰もそれを知らない。お腹を押さえるといつもより熱い気がした。
 だってここにいる。
 ティル、ここにいる。ここにいるよ。君を、君が、君の、君だけの。それをティルは知らない。知ることはない。
 どうしてと呻いた。
 それでもその腹はかつてないほど満たされていて、それがひどく恥ずべきことのような、浅ましいことに思えた。
 空は晴れていた。



20121118