「おまちしておりました。星主どの。」
 その言葉は驚くほど、ティルにしっくりと馴染むと、常のように彼に寄り添いながら、彼女はぼんやりと考えていた。ずいぶん泣いて、まだ頭がぼうっとするようだ。当の本人であるティルなど、見た目にはとっくに立ち直って、軍主としてせわしなく、あちこちを駈けずり回っている。どんなに過酷な道であっても、彼の周りに人は集った。誰もが彼に助けられたいと思ったし、彼を助けたいと思った。彼は困難や試練にぶつかる度に、ますますその広さと高さを増した。彼の下に集う人々はみな、星のような光をその身に宿していた。赤い星、青い星、白い星、小さいの、大きいの、ふたつ並んだの、暗いの。さまざまな星が入り乱れて、今や夜空は満点の星空、しかしこれよりなお星が増えるというのなら、きっと夜道は暗くもなんともない、美しく明るい真っ青で静かな世界だろう。
 それがオデッサの言う、自由な世界だろうかと、彼女は最近、“食べた”ものたちの考えることに思いを馳せてみたりする。それが食べると、血肉にするということだろうかと考えるとよくわからないし、形を失うことなく彼らは胃袋の中、彼女の内側の暗闇に留まっていたから、違うのかもしれない。食べても大して腹の足しにならない魔物や敵たちは、あっという間に彼女の暗闇に溶けて、形も意志も失ってしまう。ただ確かに食べた分だけ、暗闇は質量を増すようだった。夜、ティルが寝静まって退屈な時、彼女は空腹を紛らわせるために、自分の内側にこもることを覚えた。
 そこは初めて夢の中で恐怖を覚えたのと同じ真っ暗な闇の中だったが、篝火の性持つ女性がいるからだろうか、それとも人が増えたからだろうか。決して最初の、孤独な真空の世界ではもはやなかった。彼女の中に納められた三人の人々は、ほとんど眠りの淵にいたが、それでも時折、目覚めて彼女と言葉を交わしてくれた。
 それがどんなにか、彼女には喜ばしいことだっただろう。
 坊ちゃんはどうですか、と尋ねるグレミオは、いつも困ったような微笑をしていた。殊更安心させようと、とりとめのない話ばかりを選んで話す彼女に、やはりグレミオは苦笑する。
 それが自分が、不吉な紋章の形をしているからなのか、食べられたことを恐怖しているからなのかどうか、確認するだけの勇気は彼女にはなかった。
「ティルはねぇ、星主様なんだって。」
「せいしゅ?」
「星々の、あるじ。」
 おや、とびっくりしたようにグレミオが眉を上げる気配が暗闇の中でして、彼女はすごいでしょうと笑う。
「百八つの、星の下に生まれた、百八人が、ティルの元に、集うんだって。」
「そうしたら、どうなるんです?」
「んー…どうなるの、かな。」
「わからないんですか?」
「はい。」
 おやおやとグレミオがわらっている。ほっとして彼女は息を吐いた。ああ、ティルに、ここでこうして、グレミオも、オデッサも、テオも、みんな、わらったり、君のこと心配したりして、いつも見ているんだよと言いたい。けれども彼女の声はやっぱりティルには聞こえないから、いつも歯がゆさだけが折り重なって積もった。
 かちりと目蓋を開けると、広い軍主様の部屋で、ぽつんとひとりでいるティルの隣だった。
「…ティル、」
 あの日、テオを食べたあの時から、こうやって口に出して名前を呼ぶことが増えた。届かないと知っていても、声に出していたかった。みんなの前で笑ったり、話したり、力強い瞳で、鼓舞するように、背筋を伸ばして振る舞う少年の姿はここにはない。ベッドに一人で腰かけて、彼は自分の、手のひらを見つめている。
「重たい?ティル。」
 その若い肩に、どれだけの期待を、命を、背負っているのだろう。その重みがいかほどのものか、彼女にすらもわからない。その上彼は、近しいものの、魂を喰らい、争いを呼ぶ、のろわれた、もんしょう、を、持って
「ティル、」
 思考を遮るように名前を呼んだ。
 ねえティル、私にだってわからないんだよ。どうしてか知らないけれど、夢の中に目覚めた時には、私はもう“それ”だったんだ。君の一番の重荷。親友からもらった、たったひとつの、禍々しい贈り物。
 ごめんと言うには、言葉が届かないことを知りすぎていた。そのことを知っていてごめんと口にすることこそが、なにより罪悪なように思えて、彼女はただ、もう一度少年の名前をただ繰り返した。
 いっそぜんぶ、ぜんぶ食べてしまえば。
 ふと暗い考えが彼女の脳裏をよぎった。ぜんぶぜんぶを食べてしまえば、ティルはもうこうやって、孤独にさいなまれることもなくなるだろうか?近しい誰かを弔うことも、誰の前でも泣かないことも、ぜんぶなくなる?
 目が合うはずなどないのに、ティルの星の煌めきを宿した瞳が、彼女の上をさっと通った。もちろんただ通り過ぎただけで、けれどもそれだけで、自分の浅はかさが見透かされたような気がして彼女は頬を熱くさせる。
 君のようにあれたら。
 いつからか、彼女はティルという少年に憧憬すらも抱いていた。



20121118