三百年の年月を遡ってそれでも彼女はティルの隣に立っていた。
「ねぇ、ねぇ。おにいちゃんがたからものをとりにきた人なの?」
 くりくりとしたどんぐり眼で、見上げてくる少年が誰なのか、彼女にはすぐにわかった。この子を私は知っている。その思いを抱いたことがある少年は、後にも先にもただ一人。テッド。すべての始まりのあの雨の晩、ティルたちを逃がすために大怪我をおして出て行って、そのまま離れ離れになってしまった彼の親友。
 似ているとティルたちが首を傾げる横で、「ティル、」彼女は思わずティルに囁きかける。
「テッドだよ、あれ。」
 神経質そうな声が少年をテッドと呼び、幼い彼は家の中へ駈け込んで行く。どうしてだろう、どきどきする。彼女は初めて、自分が夢の中でも呼吸をして、心臓が動いているのだということ自覚するくらいに自らの鼓動を感じた。
 ―――ここになにかがある。
 ティルたちと並んで、少年を追いかけた家の中に入ると、ますますその感覚は強くなった。心臓が脈打つ。額が―――熱い。
「あつい、」
 脚から力が抜けそうになる。頭と胸を抑えてちょうど隣にいたビクトールにもたれかかるようにすると、うまい具合にすり抜けずにひっかっかった。ティルはテッドと呼ばれた少年を、穴の開くほど見つめている。尋ねたいことも、言いたいことも、たくさんあって、けれどきっとそれ以上に、生きているのか、無事でいるのか、その身を案じているのだろう。ティルの横顔を眺めながら、彼女はやはりぼうっとした。
 なにか。
 なにかがこれまでにないほどに、彼女に、彼女自身の内側から、働きかけている。それが何かわからず、ただ高い熱に浮かされたように視界が緩む。水の底に沈んだように、周囲の音がぼんやりと遠ざかる。険しい老人の言葉を遮るように、歌うような、女の声。どうしてだろうか、その声よりも、今目の前に立つ老人こそ、知っている気がする。テッドに感じたのとよく似た、不思議な既視感。
 その感覚の尻尾を掴もうとするよりも先に、誰も触れていない扉が音を立てて開いた。乱暴でけたたましい音。熱い風がさっと吹き込んで、しかし空気は冷え冷えとした。
「おや、おや。」
 その外には、女が一人立っていた。大層華やかな、美しい顔をした女だったが、どこか不幸な影を背負い、しかしそれすらも呑み込むような壮絶な冷艶さがあった。真っ赤な唇に微笑を浮かべ、女が首を傾げる。
 それを見つめながら、おいしくなさそうだと、熱に浮かされたような額で彼女はただぼんやりと思った。不思議だ。女にまったく興味を感じない。この夢の世界の登場人物に、こんなにも関心が持てないことも珍しい。彼女はティルに関わる人物すべてに、大いに関心を、好感を、興味を抱いた。それなのに、それよりも今、彼女は自らの鼓動と熱とに呼吸を乱れるばかりで仕方がない。
 ふいに世界を早送るように、視界が歪む。
 時間が、途切れる。

「汝、ソウルイーター。」

 どこかで、聞いた、いいや違う、何度も聞いた、何人もが、そうやって、かつて同じ言葉を唱えた。一度聴いたらきっと忘れられない、じゅもんだ。
「生と死をつかさどる紋章よ。」
 それが確かに、私の名。
「我より出て、この者にその力をあたえよ。」
 歪んでいた世界が、その言葉にピタリと焦点を合わせる。景色は変わって、またあの丸太小屋の中だ。赤い光が、老人の周りに星を描いた。彼女のつま先がふわりと持ち上がり、ひきずられる、そう思った時には幼い子供の手の甲に、禍々しい文様が赤黒く浮かび上がっていた。
 すとんと地面に足先が戻り、彼女は意識が、だんだんとはっきりしてくるのを感じる。
「お、おじいちゃん、これは…なに?」
 子供が、テッドが、恐れるような、慄くような、か細い声を上げた。夢の中で、彼女は初めて、自らの呪いめいた姿を知る。
 不吉そのもののような、鎌を背負った女の形。死神だと、自らの文様を見てそう思う。
 ああ、そうだ。
 これが私。死神そのものの呪い。



20121223