テッド。
 三百年前と変わらず美しい女の影から現れた少年は、随分と胡乱な目をしていた。
「久しぶりだな、ティル。」
 いっぽ、ウィンディの影から一歩進み出てテッドが暗い瞳を上げる。こんな暗い目をして、こんなほの暗い笑みを浮かべるテッドを知らない。
 本当にこれがテッドであるのか、見極めようとするティルとは逆に、彼女は一歩、後退さった。空っぽな言葉を繰り、そうして空っぽな目をしたテッドと、それでも目があったような気がしたのだ。
「…紋章を返すわけにはいかない。」
 どこか緊張をはらんで、固く、少しかすれたティルの言葉が、まるで合図のようだった。
 電気が切れたように、彼女の視界が一瞬途切れる。
 眩暈に似た感覚、内側が溢れだすそれとは違う、内側に閉じて死んでしまうような。それは本当に一瞬のブレで、しかし再びテッドの顔が彼女の目に飛び込んできたとき、その瞳に光が戻っているのがわかった。
 それはやはり、確かにテッドだった。
 その姿は、暗い影を背負い、どこか断罪者めいていた。
「ティル、紋章を返してくれよ…、」
「…ソウルイーターは、」
 一度ティルの咽喉が乾いて鳴るのを、彼女は間近で見た。
「渡せない。」
 かすかにテッドはわらったようだ。女が冷たい声を上げ、しかしそれを、それよりもなお冴え冴えとしたテッドのそれが遮る。

「ソウルイーター、」
 それは確かに、彼女に向けられた言葉だった。語りかける声は重く、それだけ彼の舐めた苦渋の年月を表しているようだった。
「俺はお前と三百年もの間いっしょだった。」
 三百年。
 そんなことあるはずがない、あるわけがない。しかしそれは、どうやら事実らしかった。今はつるりと白い右手を掲げて、テッドが口端を上げる。かつてそこに、彼女の文様が収まっていた。その人差し指が、ティルの肩の向こう、誰もいない虚空を指した。
「おまえのことは良く知っているぞ、その呪いの意味も、その悪しき意志も。」
 まるで彼女を、呪いそのもののように言う。
 ティルが自らの右手を抑えた。そこに彼女はいない。彼女はいつも、その文様を介して自らの内側を外へ広げた。彼女はいつも、ティルの隣にいた。形のない影のように、常に寄り添っていた。誰にも見えず、知られず。ただそこにいる。
 指を突き付けて、しかし静かな口調で、テッドは告発する。
「お前はあの日…おれがふるさとを失った日だ。あの日、おれの知っている者全ての魂を盗みとった。三百年の長き旅の間、おおくの国で戦乱を引き起こし、魂をかすめた。」
 それがすべて、彼女の罪だと言う。
「そして、オデッサという女性の魂も!ティルの父親の魂も!グレミオさんの魂も!」
 彼女は自らの、喉を抑えた。
 わたしがたべた。
「すべて おまえが盗んだ!!」
 わたしが。
「お前は、その主人のもっとも近しい者の魂を盗み、力をましていく!」

 テッドの燃えるような眼差しは、その時確かに、彼女を睨み据えていた。見られているはずがない、見えている、そんなわけないのに、それでも確かに、テッドの言葉と眼差しは、まっすぐ彼女を射抜いていた。誰かに見られるということを長く忘れていた彼女は狼狽する。そうしてその言葉を否定したくても言葉がでないまま、ぱくぱくと口を開いては閉じて後ずさる。ついにはその足がもつれて、背中に倒れこんだ。それでもその言葉から逃れるように、地面に這いつくばりながら、彼女が悲鳴ともつかない嗚咽の声を上げる。
 ちがう、違う、ちがう!
 違わないと近くで、遠くで声がする。彼女の内側、ようやく孤独から解放されたと思った、その孤独を埋めたはずの三人の声で、聴いたこともない大勢の人間の声で、違わない、と声が鳴る。埋めてやりたくて埋めたわけではない。彼女の孤独は彼女しか知りえぬことで、そうだ、彼女に"食べられて"結果的に彼らは彼女の孤独の慰めになったに過ぎない。
 死にたくなんて、なかったのに。
 自由な世界を見たかったのに。
 坊ちゃんをお守りしたかったのに。
 あのまま死んでゆきたかったのに。
 お前が盗んだ。
 お前が喰らった。
 そのために続いているものがある―――途切れてしまったものがある。
 焼けた鉄のようなその言葉に、彼女は身を捩って泣き叫んだ。ちがう、ちがわない、違う!私は、そんな恐ろしいものじゃない、私は、違う、普段は普通の女子高生で、ただの女の子で、夢の中、夢の中でだけ、こんな夢見たかったわけじゃない、それなのに何日も続けて、こんな夢、それでどうして、私が、そんな恐ろしい、おぞましい、やめて、違う、違う違うちがう!
 (ちがわない。)
 頭を抱えて、耳すらも塞いだ彼女の耳を、それでもなお懐かしい声が打つ。親しみもなにも感じさせない、ただ強くはっきりとしたその声。

「だがソウルイーターが近くにあることが、俺に力をあたえてくれた。ほんの少し、体を自由にする力を…、」
 その後に彼が何を言うつもりか、手に取るようにわかる。意識がなくとも、そうだ、確かに自分はこのテッドと、三百年一緒にいたのだと彼女の冷静な部分が静かに頷く。
 三百年。
 一体私は、本当に夢を見ているのだろうか?あるいは今、この時こそが現実で、私は呪われた紋章でしかなく、“現代”での生活、父親、母親、学校、友達、そういったものこそが、紋章の見る夢なのだろうか?
 すべてがわからなくなり、ばらばらになる。彼女を繋ぎ止めていたものが、音を立てて崩れる。ティルと悲鳴の合間に呼んだのは、きっと無意識だった。本当は私こそが君に、ずっと助けてほしかった。
「さあ、ソウルイーター!」
 高らかにテッドの、声が鳴る。
「かつての主人として命じる!」
 その言葉に、彼女は抗うことができない。確かに三百年の間、繋がれ続けた力の通り道が、そこにあるから。やめろとティルが声を上げる前に、テッドは彼に向かってだけかすかにわらった。

「今度はおれの魂を、盗みとるがいい!」

 いやだと口を押えた。それでも内側は勝手に広がり出て、彼女の体を離れる。いやだ、だめ、だめだ、ここでテッドを食べたら、私はほんとうに、








 ぱくん



20121223