そこは真っ暗な闇だった。世界の最初がそうだったと言われるように、そこにはただ冷え冷えとした暗黒が広がっているのだった。
 (…ここは?)
 テッドは暗闇の中に目を覚ました。まるでなにもない真っ暗だった。自分がどこにいるのかも、自分が存在するのかもわからない闇の中。それでも確かにここはどこだろうと考える自分がいた。
 ―――ここが死後の世界だろうか。
 三百年の間、どこか心の片隅で憧れ続けた死。しかしその、なんと暗く、そうして寒々しいことだろう。そこには何もなかった。これからも延々と、この暗黒の中に横たわることが死であるのなら、ももとせちとせの終わりなき生と、いったいどちらが楽だろう。こんな誰もいない、ひとりの暗闇で、いったいいつまで、目を覚ましていればいい?
 ゾッとするような心地がして、彼は一度身を震わせた。その振動は、どうやらこの暗闇を、細かく波立たせたらしい。ざわりと暗闇の蠢く気配。それをテッドは、おそらく誰よりもよくよく知っていた。
 呪われた紋章。忌まわしい死神の模様。
 ではここは、
「…ソウルイーター?」
 その言葉に、ふいにあたりの暗闇がわずか薄れる。よく知っているはずの紋章。視線の先、屍を重ねた暗闇の中で、少女がひとり、泣いていた。
 真っ黒な髪に真っ黒な服。胸元で結ばれた暗い赤のスカーフ。首筋と手、スカートからむき出しの足の白が作り物めいて暗闇の中映える。黒い靴下。黒い靴。その蹲るシルエットを、どこかで見たことがある気がする。
「だれだ、」
 強張ったテッドの声に、ゆっくりと少女が、俯いたままの顔を上げる。
 一瞬テッドの脳裏に、のっぺりと真っ白な、目も鼻もない、真っ白な少女の顔が連想され、しかしその予想を裏切って少女の顔には目も口も、人間にあるだろうパーツがすべて収まっていた。どこか彼の親友に似た、清らかな顔立ちをしていた。黒い目玉。そこから涙が、ほたほたと滴っている。真っ白な頬。肩からさらさらと、漆黒の髪が零れて落ちた。少女はいかにも弱弱しく、まるで害がないように見えた。
 それでもテッドは、その傍らに歩み寄ることはなく、じっとその少女を見つめている。少女の目もまた、恐れるようにテッドを見ていた。ほたり、と一際大きな涙の粒が落ちて、そうして少女の、赤い唇が戦慄く。
「――――てっど、」
 どうしてだろうか、その声は、テッドの脊髄を無理に引き伸ばすような、衝撃を与えた。涙に震えている、かすかな声。けれどわかってしまった。
 "これ"が"なん"なのか。
 呪われた紋章。
 腹を空かせては、不和を、諍いを、争いを呼び、無限に魂をかすめ、喰らう、死神の鎌、悍ましい紋章。かつてそれを、自らが運んだ。
 彼の重荷、彼の呪い、彼の罪。
 魂を盗み、喰らう者。
「ソウルイーター、」
 殴られたような衝撃に、彼は思わず後退さった。その呼び名に、少女が沈痛な顔を歪めて首を横に振る。ちがう。
 違う?
 何が。
「ちがう、」
 違わないだろうと、見開かれたテッドの目を見、少女の顔がますます歪む。
「違う、わたし、だよ、テッド、私、」
 その声で、その姿で、自分の名を呼ぶなと彼は思った。
 そんな少女の形をして、そんな弱弱しく、きよらかで、悲しそうな、苦しげな形をして。
 これは呪いの紋章。
 三百年、彼が抱え、そのために追われ、逃れ、誰とも分かち合えぬ、彼だけの孤独。恐ろしい呪いを振りまく、彼をあらゆる世界から孤独にする唯一のもの。こんなものが、どうして存在するのかわからない。
 どうしてこれは、存在するのだろうか。
 呪いを振りまき、他を、主人を呪い、そうして何よりも、呪われた紋章。暗闇のなか、少女の形をしてすすり泣くそれ。
 彼は誰よりも、やはりその名を知っていた。
 これは罪。
 他の誰でもない、彼自身が三百年の長きに渡り、守り、運んだもの。



20121223