「…え?今なんて?」 「いやだから、『おめでとう』って」 「どうしてですか?」 「だってちゃん、妙に嬉しそーな顔してるから」 フランシスさんは永遠にそうやって紳士的に微笑んでいればいいのだと思う。お酒が入っておらず、服を脱いでおらず、誰彼構わず手を出そうとしていない時の彼は素敵だ。認めたくはないがもう一度言おう。彼は素敵だ。(でも今考えている傍から私の腰にそっと手を忍ばせたりしてきやがったので、10点減点。)何食わぬ顔で手の甲をぎゅうっと抓ると、フランシスさんは「いだだだだだだ」と言いながら大人しく引き下がった。「まったく、恥ずかしがり屋さんなんだから…」その手首捻り取ってやろうか。 「ちえー。何か良いことでもあったの?」 涙目で右手をさすりつつ、何気なく私を歩道側へとやんわり押しやる。フランシスさんの横を、向かいから来た自転車がさっと通り過ぎていった。フランシスさんは、「こういったこと」が本能のレベルでできてしまう人なのだった。多分。ああゆるせない。だってこれでは、 「そうですねえ、強いて言うなら、今日ここでフランシスさんに会えたことでしょうか」 「えっ、まじで!?もうちゃんてば!そんなお兄さんときめいちゃうどうしようちょっ」 「落ち着いて下さい。そしてデートしましょうフランシスさん。現在の私の財布の中身は無に等しいのです」 「わー、まさかのヒモプレイ!」 「さあ行きましょう!あっあそこのカフェなんかどうですか?さあさあさあさあs」 私が彼を嫌いになれそうな可能性はどんどん薄くなっていく。ああやるせない。 結局、ぐだぐだと夕暮れ時になってしまった。(今日本当は帰ってからしなければいけなかったはずの、洗濯物のアイロン掛けや、食器洗いや、メールのチェックや、植物への水遣りや、そういった諸々のことに思いを馳せる。)カフェを出てからしばらく一緒にぶらぶらとウィンドウショッピングをした後(淡いラベンダー色のワンピースドレスを買ってあげようかなどと言われたけれどそれは慇懃にお断りした)、ちょっと高級そうなビストロへと腰を落ち着けた。フランシスさんが屈託のない笑顔で「ここ最近流行のお店なんだよ」と教えてくれる。そういう最新情報を細かくチェックしているのは、恐らく決して自分のためではないのだろう。 「美味し?」 にっこりと首を傾げる拍子に、彼の持つグラスの中でシャンパンも微かに揺れる。抑えめな照明の光が、黄金色の細かい泡の中でちらちらといくつもの星になる。 「すごく美味しいです。そして高そう」 「んん、結構結構。こんなんでちゃんが釣れるってんならお安いもんよ」 そーですか。メインディッシュをお行儀悪くフォークでつつきながら、なぜか急にふて腐れ始めている自分に気がついた。フランシスさんは相変わらずご機嫌そうだ。(とは言え、私は女性の前で不機嫌そうな顔をする彼など一度として見たことがない。彼が面と向かって悪態をつく相手なんて多分アーサーさんくらいなものだ。)苛々してきたのは、フランシスさんの髪がシャンパンと同じ綺麗な金色だったからだろうか。それとも私のことをちゃん付けで呼ぶからだろうか。「ちゃん」だなんて。 「あれ、どうかした?」 他の子のことはなんて呼ぶの?前はこの店にだれと一緒に来たの?明日あなたの隣を歩く女性の髪は何色?そうだね例えば、あなたと同じシャンパン色? 「いいえ。はい。…いいえ」 くだらない。 今更だって思うだろう。何だかんだで理由をつけてわざと遠回りをしていたのは私のほう。なのに、気づいてくれないとか考えて一人で腹を立てているなんて、どうしようもない。本当にしょうもない。フランシスさんはそんな私でも笑ってくれるのだろう。軽い言葉で茶化して、すぐはぐらかして、頭をぽんぽんと撫でたりするのだろう。この人は、そうすることで私が何とも思わないなどと本気で思っているのだろうか? 『だってちゃん、妙に嬉しそーな顔してるから』 そんなの当たり前だ、ばかやろう。 「今日、私、本当にフランシスさんに会えて嬉しかったんです」 「…ちゃん?」 「あなたは冗談だろうってからかうのかもしれないけど。今まではそれでいいやって思ってたけど、もう、たくさんなんです」 膝にしいていたナプキンを勢いのままに引っ掴んだ。思い残すことのないよう、地中海を閉じこめたような彼の瞳を今のうちに網膜に焼き付けておこうと思った。 「奢ってって言ったら奢ってくれるし、赤いバラの花束を私に下さいって言ったら、きっとあなたは用意してくれますよね?でもそれだけじゃもう嫌になっちゃったんです。もっとちゃんとした言葉が欲しいんです。つまり要するに、私はあなたが欲しいよ、フランシスさん。だけどあなたがそれは困ると言うのなら、私はもうあなたには会いません。これを最後のお食事にします。ごちそうさまでした、とても美味しかった。ありがとうございました」 唖然と、言葉を忘れてしまったらしいフランシスさんの横をするりと通り過ぎる。もう彼が隣に立って自転車から守ってくれるようなことはこの先ないのかと思うと、鼻の奥がつんとした。でも後悔はしない。家に帰るまでは泣かない。店から出て大通りに足を踏み出した時に、横のレンガ塀に走り書かれた、小さな落書きの文字が目に入った。 “私たちが明日どうなるかは神のみぞ知る”。ああ本当だね、まったくだ。 そうして後ろから追いかけてくる、らしくもなく慌てた足音に耳を澄まして、私は初めてちょっとだけ笑えた。 |