「…次の方、どうぞー?」
研修看護士の志村が廊下に向かって声をかける。カルテにドイツ語を並べながら、土方は小さく欠伸をかみ殺した。
こどもの鳴く声が廊下にぎゃんぎゃん木霊している。病院特有のツンとした消毒薬の匂いも、橙色の照明も、彼らには見慣れたものだ。
志村がドアを閉めると、廊下のざわめきは水の中に潜ったように遠く篭って聞こえた。
時計が昼の1時27分40秒を指した。
コーヒーが飲みたい。土方はぼんやりとそう考える。
電光板にぶら下げられた千羽鶴とご当地キューピーが冷房に少し、寒そうに揺れた。
次の子供は泣くだろうか、それとも泣かないだろうか。
ペンをぐるりと回して土方は考える。
ドアの開く音。
「よろしくお願いします。」
「はい、お荷物はそちらに。」
志村と話す母親の声。なんとなく耳を通り抜けてゆく。(ふうん?)
「先生お願いします。」
志村がさっとカーテンを開ける。
「どうしました?」
カルテから目を離さずに土方は言った。
子供が椅子に座る気配。ギッと小さな椅子は軋む。大人しそうだ。横目にいかにも良いところの少年が履いていそうな黒いトラップシューズと白い清潔な靴下が見えた。足をぶらぶらさせることもなく、子供はじっと足を宙に浮かべている。
「転んでひどく手を捻ったんです。」
不安そうながらもしっかりとした母親の声がする。
(そりゃあ整形外科の管轄だろう。)
そうは思うが、子供のことだ、と打ち消す。どちらにしろ小児科を通すことになるのだろうから。
「どれ。」
「土方君?」
ぐるりと椅子を回転させて体ごと子供の方を向いた土方ははっと顔を上げた。
目に涙をいっぱいためて、我慢していたんだろう。土方が急に顔を上げたので子供がびっくりして、その表紙に黒い目玉から涙がほたりと落ちた。
けれども土方は、ポカンと母親を見上げていた。
だってそうだ、間違えるはずがなかった。
母親は彼のとても良く知る人だった。
「…。」
ぽろりと言葉が口から転がり出た。ひどく久しぶりにその名を呼んだ。
昔は毎日のように呼んでいたものなのに。もうずいぶんその時代は遠かった。
ああ母親になったのか。(俺の知らない間に。)結婚したのだと言う噂はちらりと聞いたことがあった。
「土方君て小児科医だったのね。」
ふわりと彼女が微笑む。ずいぶんと大人びて、穏やかなやわらかい笑い方だった。それに土方は、子供の目線に合わされた少し低い椅子に座ったまま、ポカンとし続ける。
ずいぶんと若く見える美しい母親だった。土方と同じ年なのだから、子供がいたって不思議はない年齢だ。
しかしなんだか、彼女は幼い、というわけではなく妙に若々しく見えた。それでいて落ち着いて、穏やかに凪いでいる。深い蘇芳の小袖に朱と金茶のおおきな市松模様の帯を締めて、襟元からは赤い絞り染めの襦袢が覗いている。いかにも品のある落ち着いた服装だった。
子供の方をよくよく見ると、目がぱっちりとして睫毛の長い、なるほど彼女に良く似ている―うつくしいこどもであった。白い半そでのシャツはしっかりと一番上までボタンを閉めて、黒い半ズボン。どこかへでかけでもしていたのだろうか、これが私服であるならば彼女は相当な両家へ嫁いだに違いなかった。子供はいかにも利発そうな目をして、大人しくただはらはらと涙をときおり思い出したようにこぼしていた。土方の知らない男の面影もそのかんばせにちらりと覗く。
それにはっとして、土方は数度瞬いた。
「…ああ。どっちの手を?」
「左の方を。優、お見せしなさい。」
コクリと子供が頷いて、左手を差し出す。なるほど手首の辺りが赤黒く腫れていた。
少し触るとぎゅっと子供は顔を歪めた。
「捻ったって?」
うまく話せているのか少し自信がなかった。妙に喉が渇くようで、土方は声がかすれないか気が気ではなかったが、声はいつもどおり平坦なまま、掠れもしなかった。
「ええ、転んだんです。」
土方が医師だから、だろうか。彼女が敬語を使うのが妙にさびしい。
「いつごろ?どんなふうに?どんなふうに?」
こりゃあ折れてるかもな、と少し目を室内に向けると、志村が、痛そうに顔をしかめて子供の手を見ていた。それに少しじっとりとした視線を向けておいて、土方はカルテとペンを手に取る。
「ついさっきです。お墓参りに行っていてこの子水桶を運んでくれたのですけれど石畳の階段で転げてしまって。」
「…へえ。」
墓参り。彼女の地味な服装にも納得がいった。誰の?思い浮かばなくて、しかし土方の聞くことではない。少し不自然な沈黙が流れて、「レントゲン、とったほうがいいだろう。」という土方の声が間延びして響いた。
「志村。」
呼ぶと、連れてってやれ、と子供をそおっと立たせる。
「この眼鏡と一緒に行けるか?」
「はい。」
とまだ涙に濡れた睫毛で子供が頷く。
「眼鏡っていうなあああああこの小児科医なんて嘘!内科!内科のおばちゃんキラー!」
「うるせえええええ早く行け!!!」
「ぎゃあー!こわいねえーほらええと名前は?優くん?そうお兄さんは新八だよーあのムッツリは土方先生だよーこわいねー大丈夫だよレントゲン取りに行くだけだからね、体の中の写真撮れるんだよ。」
彼は年の少し離れたいとこ(なんかピンクの頭のガキだ。)がいるといっていたためか子供の扱いがうまい。
手を繋いでやって子供の歩調に合わせてドアを出た志村を見送って、土方はひとうつ息を吐く。
は「変わってないのね。」と少しおかしそうに笑った。
「子供できたんだなア。」
思い出したように土方が言うと、ああ、と彼女は目を細くした。
「今年で5つなの。」
「5つか。随分しっかりしてんのな。」
普通を装って話しながらも、やっと敬語がなくなったのにいささかほっとして、それでもやはり落ち着かなくて、土方はやめたはずの煙草がとても恋しくなった。煙と一緒にこの妙な焦燥感も吐き出してしまいたかった。無意識にまさぐったポケットには、もちろんペンと飴玉が入っているだけだった。
手持ち無沙汰な感じがして、土方はカルテをめくる。見慣れない苗字が目に入って、すこし情けなくなる。
「ああそうか、もうじゃねえのか。」
すこし笑ってみせたら、、はいいえと首を振った。
「え?」
「もうすぐに戻るの。あの人が死んで3年経つので。」
「…旦那死んだのか。」
「ええ。事故で。むこうの両親が私はまだ若いのだから3年喪に服してくれたらあの人のことは忘れてやってくださいねって。」
勝手ね、と彼女が頬に手を添え、首をかしげて少し疲れたような微笑を浮かべる。妙にそれが美しくて土方はドキッとする。
「…そうか。」
それだけしか言えなかった。
内線のコールをつげる緑のランプが小さく光る。悪い、と断りを入れて受話器をとると、土方は予想通りのないように、ああとだけ頷いた。
「…やっぱり折れてるみてえだな。」
「そう。」
痛そうに彼女が眉を下げる。その表情は、いつだっけ、剣道の試合で土方が腱を痛めたときとおんなじ顔だった。ああと柄にもなくあわてて土方は彼女の目を見る。
「大丈夫だ、子供は一回や二回くらい骨折っといたくらいが魚食うよりよっぽど太くて丈夫な骨んなんだよ。」
それにがくすりと笑う。少しほっとして土方は椅子どとぐるりと回って机に向かい直った。
「整形外科のほう回すから、またなんかあったら来な。」
うん、と彼女がにっこり笑っているのが分かった。
土方君白衣似合うねえ。年甲斐もなく少し恥ずかしくて土方は少し唸る。
「次の方どうぞー?」
子供の手を引いて彼女がドアを出てゆく。じゃあまたね、と手を振った大人びた微笑み。子供の手を引く穏やかな動作。少し思い返して土方は首の後ろを掻いた。
(ああ今もまだそれは)(続いているのだ。)(ゆるやかにゆるやかに。)
20070809/便乗してやってしまいましたげへげへ!!すみませ…!白衣の土方(小児科)と未亡人(子連れ)(…)(なにもいうまい)
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