蝉の声は遠くなり、薄墨色をじわじわと深めながら夜が来た。山の際に消え残った蜜色の夕焼けが、なんとも優しい具合に目に沁みる。
狭い路地を曲がると、笑いながら、駆けてゆく、子供たちの群れに笠の下で桂はそおっと口端を持ち上げた。夏休みの子供たち。ご飯が待ってる、早く帰ろう。ポツリ、ポツリとひとりごとみたいに、町の明かりがつき始める。行燈をゆらゆら揺らして、帰りを待つ人が出迎えに出る。ただいま、おかえり。ほほえみの頭上にはぽっかりお月様。
夕暮れ時はなんともスローテンポに時間が流れる。子供たちがピカピカの真昼を惜しむように抱きしめて離そうとしないので夏の日暮れは遅いのだ。お腹が空いてお家がせつなくなるその間際まで、子供たちは飽きずに遊ぶ。しかし今では昼間の喧騒も穏やかに息を潜め、内緒話の要領で小さく笑いさざめいていた。
(…カレーのにおいがするな。)
桂は少し首を傾げた。シャラリと杖が鳴った。異星の料理はすっかり江戸に馴染んでいて、こんなに町に良く似合う。
(風が涼しくなってきた。)
チリンと風鈴がどこかの軒で鳴っている。
後を尾行る者がいないのを確認して、桂はすうっとさらに細い道に消えた。だんだん暗く濃くなる夜の中を悠々とした足取りで泳いでゆく。住宅街の中、家と家の隙間。途中竹垣の上を器用にあるく黒猫と擦れ違った。お互い少し見合って、無関心を装うように無言で、通り過ぎてゆく。でも猫はぴんとしっぽを伸ばして胸を張ったし、桂は少し鼻の先を見つめて背筋を伸ばした。擦れ違い様猫が鳴いた。桂が振り返った先にもう姿は見えない。走って帰ったんだろう。誰かに会いたくって。
桂は笠を被り直して笑うと、ゆっくり歩を進めた。
夾竹桃の垣根を曲がって、後ろ手に戸を閉める。庭を横切り、もうすっかり墨色が満ちた縁側から家へあがり込んだ。草履はそのまま沓脱石の上に揃えて置いた。笠と杖も、同じように縁側に揃えて置いておく。
杖を置いて、ふと顔を上げた先に白く浮かんだ月が見えた。背の高い夾竹桃を飛び越えて、ふっくらと膨らんだ月は、満月にはまだ幾分早い。ずいぶん近くで蜩が鳴き始めて、涼しい風が、するりと桂の首元を撫でていった。細やかな黒髪が風に乗る。
帰ってきたというのに、早く帰ろう、だなんて言葉が浮かんで桂は目元だけでやわらかく苦笑する。
立ち上がり薄暗い畳の上をそおっと歩いて玄関口に回ると、やはりがそこにちょこんと座っていた。土間に足を下ろして腰掛けている背中と肩のなだらかな曲線に、桂はわけもなくてほほえむ。廊下が少し軋んだ音を立てて鳴ったので気がついてが振り返る。スローモーション。夏の夕暮れはなんて緩やかに時が進む。振り返った頬のやわらかい白さを、桂はずっと覚えておこうと思った。
「おかえりなさい。」
噫吃驚した、今日は裏からですか、とおかしそうに微笑んだの目元に、桂はやんわりと笑みを返す。
「ああ。」
ただいま。おかえり。そのやり取りが嬉しいのは何も子供だけではないのだ。老人も猫も桂も、きっとも、人と言うのはこのやり取りが好きなのだった。
立ち上がり歩き出したのあとを続いて廊下を歩きながら、桂はその纏められた髪の結び目を見ていた。ゆるく下の方でくくられた髪の束は、の歩きに合わせてゆるゆるその背中を撫でる。
なぜだか無性に解いてやりたいな、と考えながら、もちろんそんなことは顔には出さずに桂は歩く。
「早かったですね。」
「ああ。」
「お腹すきましたか?」
「…ああ。減ったな。」
「今日はカレーですよ。」
「ほう?」
少しだけ驚いて桂が笑う。
夜にぽつんぽつんとふたりの会話が溶けて、あんまり静かで優しい夜なので、ほらほらお月さん、そっぽを向いてくすくす笑っていますよ。
ただいま/おかえり/のんびり微笑むお月様/優しい夕暮れ、その後で。
20070725