男の冷静な、まるで気にもいたしておりませんと主張するその涼しげな横顔に、女はこっそりと溜息をこぼす。
男はまるで喋らない。ただうっすらと、人好きのする笑みを浮かべて、女の勺を受けている。階下のざわめきが、この最上階の部屋には遠く、静かだった。星々の廻る音が聞こえる――というわけにはいかないが、下々のざわめきが、漣のように聞こえた。男の横顔は静かだ。
女は静寂が嫌いではなかったし、こうして穏やかな夜も良いものだと思った。しかし相手が、いささか気に入らなかった。
ここにいるのに、ここにはいない。ぬらりひょん。幼い頃の寝物語を思い出して、このお人のあだ名はぬらりひょんに決定やわ、と彼女は考えている。
空になって差し出された杯に、なみなみたっぷりと、注いでやる。案の定それは男の手を伝うほど溢れて、その穏やかな顔がやっと崩れた。それに女が、いい気味、と微笑みながら手ぬぐいを取り出すのを、男は眼鏡のレンズ越しに呆れたように目を丸くして見ていた。
「いぢわるな人だね。」
おもしろそうに、彼が言う。
「あら、」
その言葉に女が目を丸くする。そしてふふふとその赤い口端を持ち上げてうっとりとするような笑みを浮かべた。しかし男は、なんともそれにも無感動で、ただ自分の袖が濡れてしまわないように、おっと、と言いながら袖をたくし上げている。
「伊東せんせが悪いんやわ。うちのことちっとも相手してくれへんから。」
それはすまなかったね、とすぐに返ってくる優しげな言葉も、気に入らない。いいえこちらこそすみませんでした、と心のこもらない返事に極上の笑みを沿わせて彼女は手ぬぐいで男の手を拭った。
「先生なんて大したものじゃないよ。」
階下でどっと笑い声が起こったのが、ぼんやりと聞こえる。どこで聞いたんだい?という苦笑気味の言葉に、女は男の目を見た。
眼鏡の向こうの涼やかな目元は、やはり、ぬらりひょんの目だ。鰻の目でもいい。掴めないし、見えないのだし、見えていないのだもの。
「前隊士さん大勢連れてきはったときに、先生先生、て呼ばれてはったやないの。」
「そうだったかな。」
男が首を捻る。腕はきれいに拭われて、彼は半分浮かせていた腰を、またその立派なお座布に沈めた。
「続きを頼むよ。」
空になった杯が遠慮がちに差し出される。今度はこぼさないでくれると嬉しいんだが、からかうような微笑もその親しげな様子も女を白けさせるばかりだ。
わるいお
ん
な
#10
20080512