懐かしい人の夢を見た。
緑陰はそよぎ、木下の闇で彼女が微笑してまねく。ああ木漏れ日の空。どうしてこんなに悲しくなるのか誰も知らない。ただ私だけが知っている。
lotus
おおい、おおい、と、不思議な響きの声が古い屋根屋根にこだましている。高く、低く。語尾を重ねながらふたつの男の声が響く。鐘を慣らしながら、市の角を曲がり、遠くなる。独特のうねりを持つ振動幅の音だ。口をすぼめて、おおい、と。なにを呼ぶのかなにを祓うのか。薄汚れた脚絆の土埃を払うこともなく、連れだった二人の僧は京の街角へ消えてゆく。
おおい。
八月はゆめうつつ。
夢と現のあわいが、限りなく曖昧になり、融け出す魔の季節。
植物も怪したちも異常なまでの暑さに勢いづき、日暮れともなればそこかしこに溢れ出す。盆ともなれば黄泉路も開き、地上では篝火、空には鬼火。お祭り騒ぎだ。
垣根の向こうに、百日紅がたわわに咲いている。あれを手折って灯をともせば、暗い夜道を照らすぼんぼりになるのだよ。紫がかったくれないの焔、あげて、燃ゆる。
一条は東のどんつきに、その屋敷はあった。
門から邸までの距離が異常に長く、その周りをぐるりと森に囲まれている。
手入れもされず鬱蒼と茂る緑は色濃く、辺りに噎せかえるような芳香を放っている。
「やすあき、」
呼ぶ声があって、彼は浅い微睡みから覚めた。
緑の池には蓮が咲き乱れ、水面に白い影を映している。灯火のように揺れる白い花。静か静かな光と影。緑陰が軒から縁側に漏れてそこら中に満ちている。
その緑陰と同じ緑の髪がさらさらと頬をよぎってこぼれた。
結んだ髪はいつの間にか、ほどけてしまっていたらしい。起き上がったままの姿勢で手を床の上に滑らせると、結わえ紐が人差し指に触った。そのままそれを持ち上げると、髪を後ろに纏めようと骨ばった腕が動く。
しかし細い髪は彼の手の間をさらさらと流れ、なかなか思うように手が進まない。
「やすあきは髪をむすぶのがへたくそだ、」
くすくすと笑うこえが、若葉を揺らす風に混ざって落ちた。やはり夢に聞いた音は、うつつのものであったらしい。
そして彼には、その声に聞き覚えがある。
「…うるさい。」
最初に男はそう言った。何もない虚空に向かって。
纏め損ねた髪が、耳の後ろからこぼれた。
それを掬う白く美しい手のひらがある。内側から発光するような、やわらかく細い指先。
「括ってやろう。」
細い指先が緑の髪を撫でる。彼があんなに苦労していたのに、あっという間にその手のひらは彼の髪をいつもの通りに結わえてしまった。
「ほぉらできた。」
嬉しそうに笑う、少しばかり得意げな声。
男は何も言わず、ただそっと耳の後ろでまぁるく結われた髪にそっと触れた。いつものとおりだ。
その間も、表情は少しも変わることはない。
「…なにをしにきた。」
それに声の主が、つれないとわらう。
「せいめいがいない。」
聞かずともその答えはわかっていたから、彼は息をひとつ吐いて、庭を眺めるように座り直した。風が吹く。真っ青な緑の風。
「どこへ行った?」
「知らぬ。」
「せいめいが今日こいといったのだ。」
「師匠の考えなど私には解せぬ。」
それよりさっさと姿を顕したらどうだ。
男のなんの抑揚もないその言葉に、手の主が「忘れていた」と明るく声を上げる。
そう。たしかに緑陰の満ち溢れる部屋の中には、美しい女の白い腕しか、浮かんでいなかったのだ。
風がひとつひゅうと吹く。
彼の背後には、美しい腕にふさわしい見目の女がひとり。鮮やかな白い髪は腰に届くほどに長く、背中を覆っている。薄くれないの瞳。紅色の虹彩。群緑の裳をつけて、長い裾を引きずっている。真っ白な肌は、緑陰を映して透けそうなほど。
どこからか同じ色をした花弁が、彼女を彩るように風に乗って舞った。
「おまえのししょうはあいかわらずだな。ひとをよびつけておいて、おらぬ。どこへいったかもわからぬ、などと。」
「お前が一番知っているだろう。」
「それはそうだ。」
女が明るい笑い声をあげた。
男を知る者がこの光景を見たら、驚くだろう。彼がこれだけ会話するのを、見たことがあるものは少なく、会話を交わした者も少ない。
彼が必要外の言葉を交わすのは、彼の師匠と、それらの元に集ってくる師曰くの"気の抜けない"友人ばかり。どれもこれも、人に非ず。人に非ず。
―――気をお付け泰明。あれらは陽気で博識で長命で退屈している。
そうして師もまた、陽気で博識で退屈していて遊び相手を探している。
変わらないと男は思う。
どちらの相手をすることも、変わらない。もちろん自分とて、同じ藪の貉。陽気ではない、博識と言うにはまだ遠く師とその友に及ばぬが俗人の届かぬ域にあり、退屈―――しているのだろうか。とにもかくにも人には非ず。それだけは同じ。それだけ同じなら十分だ。一体なにが変わろうか。
蝉が煩いほどに鳴き出した。音の洪水だ。あんなに静かだったのに。彼が眠る間、息を潜めていたものたちが、一斉に動き出した。
女がひょいと、男の顔を覗き込む。
「うふ、せいめいのわかいじぶんによくにている。」
「…。」
「そうだ、せいめいにみやげをもってきたんだが、やすあきにやらないのはふこうへいだな。」
彼が返事をしないのもお構いなしに、女は勝手にそう思いついてそれを口に出すと、細い指先で男の顔に施された化粧をなぞった。
その指先が、淡く光る。
しばらく二人は、なにも話さず。やがて男のほうがなんだか少し忌々しげに、小さく言葉を呟いた。
「…余計なことを。」
おお、怖い。笑いながら、女はちっとも気にしない。
「このじきの陽の気は、にちりんのほむらのように、あかるくちからづよいだろう?」
それは確かに事実である。
女がその身に受けて冬を越すために蓄えた陽の気が、ほんのわずかながら―――それでも十分に事足りる量が、指を通して男に流れ込んだ。ただ季節のために力の増した陽の気ではない。真っ白な花びらに濾されて、高純度に精製されている。
ほう、と彼の口から知らぬうちに溜息がでた。
口ではそう言っても、やはりその気は、彼にはひどく、心地よいのだ。
陽の気は彼を安定させる―――この世に定着させる。
「さあ。みやげもやった。せいめいがかえってくるまであそんでおくれな。」
おんながにっこり笑ってそう言った。
嫌そうに顔を男がしかめるのを、ますますおかしそうに眺めて女がわらう。
「いいだろう?な?碁をうとうよ。きょうはひまなのだろう?。」
あやかしの女の言う通りだ。今日は一日、師から暇を仰せつかった。
いつの間にか縁側には碁盤が置いてある。水色の盤の目。ももいろの石。さあ、と女が笑い、庭の池で蓮の花が揺れる。蝶がひとひら、緑の中白く光った。
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