「詩紋様、大丈夫ですか?」
「あ、平気です。大丈夫。…ごめんなさい、心配かけちゃって。」
 いいえ、と微笑む人を不思議そうに詩紋は見上げた。その視線に気がついて、彼女はゆったりと首を傾げた。
「…女房さんは、」
 はい、と頷いて彼女が首を傾げた。長い長い髪がサラサラと肩からこぼれていく。藤姫ほどじゃないけれど、何枚も重ねられた内着の彩りは目に優しい変化だ。春の雨が降っている。しとしとしとと、優しく毛布でも被せるみたいな様子。白藤のかさねいろ。優しい色だな、って詩紋は考えて、それからまた少し膝を抱えなおした。
「僕のこと、怖がらないですね。」
 その言葉に、彼女はぽつりと笑った。
「はい。」
「"おに"と一緒なのに。」
「でも鬼ではないのでしょう?」
 多分、と詩紋は口の中で呟く。
 それにしても彼女くらいだったものだ。この世界で彼の容姿になんの反応も示さなかったのは。しかしその様子は無関心というわけとも違った。
 そう、まるで、彼女の態度には本当に、元の世界だって彼の容姿は目をひいたものだのに、そんな差異などまるでないように、当たり前のことのように受け入れられたような気分にさせられて逆に驚いた。
 じっと黙っている詩紋に、彼女はやんわり微笑んだ。
「わたくしは、鬼というものは、彼らのことだけではないと思うのです。」
 彼ら。彼女がそう指す人物達のことが頭に浮かぶ。
 噫怖いな、悲しいな、思い出すだけでそう思う。
「我らを害し、仇成し、憎み、呪い、恨み、殺し。そういった感情を抱き実行しようとする者たちを、わたくしは鬼と呼ぶのだと思うのです。」
 元は鬼とは、怨霊のより強い、神のような力をもつ存在を言ったそうですよ。視線の先に広がる庭の、美しいこと。春雨にぬれて、緑もあわく煙る。
「わたくしたちに敵意を持っているものは恐ろしい。ですから、」
 と彼女は言った。
「ですから詩紋様は違います。」
 まっすぐな目が、自分の頭に降り積もっているのがわかって、詩紋は顔を崩す。
「違います。」
 彼女がもう一度言う。ありがとうとうめいた言葉は喉の奥。小さくこもって聞こえない。それでもきっと届いただろう。はい、と頷く優しい声がするから。
 噫でも僕はこの人の名前を知らないや、そう考えて詩紋は天気雨のような顔で笑う。この世界に決まりごと。女人が名前を他人にあげるのは約束なのだそうだ。幼い彼にはまだ、ずっととおい約束。とおい世界。異なる時空。そこにいた人。その名は知らず。
 そうしてきっとこれからも、その真の名を、知ることはないのだろう。決して。