いささか唐突ではある。強引でもあるだろう。
 しかし聞いておくれ、――しばし彼の話をしよう。
 我々は廻る。そして彼もまた廻り廻った磨耗された生命。
 何度目の生命。
 いつ終わるとも知れぬ。
 これは彼の話。















  














 彼は以前生まれる前には、鵺と呼ばれる怪しであった。
 背筋も凍る声を持ち、美しくも恐ろしい、化け物の生であった。
 足音忍ばせた黄昏時に、射られた矢は真弓での木でできていた。
 屋根から落っこちるその瞬間、後悔したような目をして立ち竦む男を見て彼は少しだけ笑った。
 何を嘆くお前の勝ちだ。そう笑った。
 男との勝負は随分楽しかった。













  















 彼は以前生まれる前には、美しい娘であった。
 白い頬、寂しい目をした乙女であった。
 娘は娘のことだけ愛した。他には見向きもしなかった。
 ある日彼(まだその頃は娘だったが)は、美しさと孤独のために、死ぬことにした。
 花を抱え水に落ちる瞬間に笑んだ目元はやっぱり美しかった。
 白い衣はすぐ水を含んで鉛のように重くなった。
 閉ざされた水の中、彼はなんにも思わなかった。












  















 彼は以前生まれる前には蛇であった。
 赤い目玉とぬめらかな胴と、狡猾な知恵とを持ち、人を堕落せしめる蛇であった。
 林檎を食べた、金の髪した娘を愛していた。
 ただただ一途であった。
 貶めるつもりなどなかったのだ。
 最初で最後の涙はなんとも言えず甘かった。














  















 彼は以前生まれる前には虎であった。
 赤銅色をした、しなやかで逞しい脚を持つ猛々しい獣(けだもの)の生であった。
 彼は常に強者であり勝利者でありそして無法者であった。
 甘い柘榴の肉を口一杯に頬張った瞬間、彼は体中強張って、その青い目一杯に空を満たした。
 背徳の味は大層美味かった。
 何故体が動かぬのか、そればかり不思議であった。











  















 彼は以前生まれる前には、一輪の花であった。
 燃えるような赤を持ちながら、誰にも知られず色褪せた岩影の花であった。
 その赤い花びらは風に乗り海へ流れた。
 彼は波間に呑まれる寸前青い空を見た。
 その青!
 花びらはそれを抱しめる腕も口付ける唇も持たぬことを初めて口惜しく思った。












  















 彼は以前生まれる前には、西の国の王であった。
 良き王だった。
 たくさんの優しい目玉とそれに滲む親愛に囲まれて、彼は大層満足して目を閉じた。
 王の孤独は結局誰にも知られなかった。
 彼自身すら、おそらく預かり知らぬところであったろう。
 ただ時折、砂漠の向こうへ目を凝らせば酷く空しくなった。













  















 彼は以前生まれる前には生まれなかった。
 母体から切り離され独立するその前に、消えてしまった生命だった。
 彼は決して望んでいた海を見ることがなかった。
 自らが人であるのか魚であるのか鳥であるのか、はたまた蟲の類であるのかそれすら知らず。
 何を成すのか選ぶのか捨てるのか拾うのか。そのようなこと思いも寄らず。
 生ぬるい水の中彼は叫んだが、その叫びに音はなかった。














  















 彼は以前生まれる前には、南風であった。
 海の上を吹くのが好きだった。
 海面すれすれを、陽光ともつれながら掠め吹くのが特に。
 季節が廻り彼は凍えて海中に沈んだ。
 彼を飲み込んだ魚の口は、泣いているようにも思われた。
















  















 彼は以前生まれる前には名前のない男であった。
 自らが何者か知らず、名も、家族も、住家も、生れ落ちたそのときから何も持たなかった。
 人からは様々な名で称されたが、それはどれも彼だけのものではなかった。
 餓えた腹を抱え満たされぬ願望の中目を閉じる寸前に彼は思い出した。
 以前生まれる前には自分が美しい幸福な娘であったこと。














  















 彼は以前生まれる前には、蝶であった。
 白い羽は軽く、風に流れた。
 彼をつまみ上げる指はとても大きく苦しく、その羽は捩れた。
 青い花を愛していたが、その愛は移り気で、決して一所に留まるということを知らなかった。
 花は彼の死に涙しただろうが、彼は花が枯れても摘まれても決して泣きはしなかった。














  















 彼は以前生まれる前には大きな熊であった。
 片目を潰した、歴戦の勇士であった。
 その雄叫びは、山々に太鼓のように轟いた。
 彼は守って戦った。
 悔いなど微塵も、有る筈もなかった。
 守護者である彼の肉体は朽ち、その後に山吹がたわわに咲いた。















  














 彼は以前生まれる前には、僧であった。
 いづこにましますや、と呟いた言葉に答えはなく、ただ星の瞬きだけが眩しかった。
 彼は誰にも知られず山野へ旅立った。
 答えを求め流離った。
 漂白の旅路に星明りは積もった。
 彼の目は優しく見えなくなった。
 神の返事は未だない。















  















 彼は以前生まれる前には一振りの刀であった。
 灼熱の炎で練磨された、見事な曲線であった。
 赤い飾り紐が自慢で、その柄の蝶を愛していた。
 或る日ポキンと真ん中で折れた。
 そうして主人とともに土の下、土の下。

















  














 彼は以前生まれる前には一羽の立派な鷹であった。
 彼はこの世の何より自由で、自らの王国、世界の主だった。
 彼は何処までも飛んだ。
 その金色の睛に青い空と海と光とを一杯に映して大きな声で笑った。
 その声は空中響いた。
 彼は風を引き連れて飛翔した。どこまでもどこまでも。
 空の高みのその先を目指して。
 その嘴が、笑みの形にカタカタなった。
 ビュウビュウ風が吹く。自由だった。












  













 生まれる以前に様々なものであった彼。そうしてこれからも様々なものであり続けるであろう彼。

 その彼は名をヒノエと言う。
 仮初の名であるが彼は一等この名を気に入っていた。
 その名である間は、彼は鳥であり南風であり船であり名もない男であり熊であり。あらゆるものになれるような気がしていたのだった。
「ヒノエくん。」
 彼は娘を一人見つけた。黒い髪が美しかった。
 いつか会ったろうか、これから会うのだろうか。
 どちらにしろ彼には関係のないこと。


 彼は以前生まれる前には―――。