誘われた波打ち際に、小さな小舟があった。 海から吹き寄せる静かな風が、わずかに水面に筋をたて、 が肩から羽織ったままの衣をほんのりと揺らす。 天の海に舟を出そうと、ヒノエが言った。 「うみ?」 「そう、そらの。」 そう言って彼が、水平線を指差した。 真っ暗な海。遠く潮騒の音が、深いわだつみの淵から響き寄せている。底知れず深く、少しばかり恐ろしいような心地が、にはした。だってこんなにい黒々として、底知れず深い、夜の海。。 「本当に行くの?」 「馬鹿だな、今日じゃなきゃ。」 こんなに晴れて星も出て、凪いだ静かな夜でなければ。 ひめごとのようにヒノエが言って、「さあ、乗ったのった。」そう笑った、次の瞬間、 「わ!」 ポオンと を抱え上げると小舟に放り込んだ。 「ひ、ひとさらいだ!」 思わず悲鳴を上げると、「海賊だからね。」さらりと口の端を持ち上げる。 「だいじょうぶ、落っことしたりしないからさ。 言いながらぐいと舟を波の寄せてくるほうに押すと、あっと言う間にヒノエは軽やな動作で舟に飛び乗り、さっさと棹を器用に操って沖へと向かいだした。 波に逆らって漕ぎだす最初は一苦労だというのに、彼の余裕綽々なことと言ったらない。ほどなくして沖まで進み、それでもなお、舟を操るのを彼は止めなかった。 「ヒ、ヒノエくん!」 「…もうすぐ。」 目を細めて、暗闇の中彼が笑う。 「潮と潮とがぶつかりあって打ち消し合って、波も風もないところ。」 さざ波すらもない、真っ暗な海面が、すぐ目の前にある。 少し怖い。 ひゅうと風が顔に吹き付けてくる。きゅ、と指を握りしめたをチラと横目で見やって、彼はなお、棹で海面を押した。 「天に舟が出るぞ。」 最後のひとかきと、囁くようなこわね。 しずかだった。 海面は鏡のように凪いでいる。 凪いでいる。 凪いで 違う。 星。 天音はその水の表に、白く光る星を見つけた。 空。 ギイ、と最後のひと漕ぎの反動で、船は勝手に、ゆるりと進んだ。 夜の空を。 今やあたりは満点の星、水面は透明な夜空の成分。水銀か、黒曜石の溶けたものか、凍えた真空か、なにか。乗り出すように船べりから見下ろしたに、ヒノエは「落ちるなよ、」とだけ笑った。 そら。 は胸のなかつぶやく。空の鏡に映る自らの面を見たのだ。長い髪が水面に向かって、肩から垂れてた。その後ろで、ヒノエの赤い目玉が、星屑の燐光、散らしてやさしく笑っている。 舳先が夜を圧して進み、棹の先が月に生える桂の枝に絡む。透明な魚がぷかりと燃える雲を吐き、思わず水面に垂らした指先が空に波紋を投げた。 「きれい、」 子供のようにつぶやいたに、ヒノエが今度こそ屈託のない笑い声をあげる。 今宵、風はなく闇晴れ渡り、真空に花の咲く。 星屑の空、悠々と割って、君の渡す舟が出る。 |